達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(2)

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 前回の続きです。クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1990)を読んでいきます。

 「テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける」方法によって進められた研究が、これまで生み出してきた「神話」を紹介する一段です。今回は、「第一の神話」を見ていきます(p.53-59)。

 第一のものは、古典的理論家の中に散在している、あるいはまったく副次的な主張が、指定されたテーマの一つについての彼の「教義」に変えられてしまう危険である。そしてこの教義化からは、さらに二つの独特な型の歴史的背理がもたらされることになるであろう。すなわち、その一つは、個々の思想家(あるいは一連の思想家たち)に焦点を合わせる知の伝記(intellectual biography)もしくはどちらかといえば通史的な思想史に特徴的な背理であり、いま一つは何らかの「観念」それ自体の展開に焦点を合わせる、現に見られるような「観念史」(history of ideas)に特徴的なそれである。

 スキナーは、もともと作者が主張するつもりがなかったこと、または副次的に言及したに過ぎないことが、現代の研究者によってその人の主要な「教義」であったかのように描かれてしまう場合があると述べます。これにより、

  1. 個々の思想家(あるいは一連の思想家たち)に焦点を合わせる知の伝記
  2. 通史的な思想史に特徴的な背理であり、いま一つは何らかの「観念」それ自体の展開に焦点を合わせる、現に見られるような「観念史」

 の二種の歴史記述において誤りを生じさせることになります。まず、①についてどのような誤謬を生むのか、見ていきましょう。

 知の伝記に固有の危険は、まったくの記時錯誤(anachronism)の危険である。その場合、所与の作者は、用語の偶然的な類似性をもとに、彼が原理上貢献しようとは意図しえなかった主題について何らかの見解を持っていたと「発見される」ことになる。たとえば、パドゥアのマルシリウスは、『平和の擁護者』のある箇所で、主権をもつ人民の立法的役割との比較において、支配者の執行的役割について典型的にアリストテレス的な見解を提示している。たまたまこの箇所を見つける現代の解釈者は、当然のことながら、アメリカ革命以来、憲法上の理論と実践において重要となっている教義、すなわち政治的自由の条件の一つは立法権力からの執行権力の分離であるという教義をよく知っているであろう。この教義それ自体の歴史的起源は、(マルシリウスの死後二世紀たって初めて論議された)歴史研究による提言、すなわちローマ共和国の帝国への変貌は、集権化された政治権力をただ一つの権威に委ねることに内在する臣民の自由の危険を証明したという提言にまで辿ることができる。もちろんマルシリウスは、この歴史研究についても、またそこから引き出される教訓についても何ひとつ知らなかった。(彼自身の議論は実際、アリストテレスの『政治学』第四巻からのものであり、政治的自由の問題にはいささかも関係はない。)しかし、これらすべては、マルシリウスは権力の分立の「教義」を持っていたと言われるべきか否か、もし持っていたとするなら、彼は「その教義の始祖として認められる」べきか否かという問題についての調子のよい、だがまったく無意味な論争を阻止するのに十分ではなかった。しかも、マルシリウスにこの教義を帰することを否定してきた専門家ですら、その結論をマルシリウスのテクストに基づいて導き出していて、そもそも彼が、用語も知らず、また自分にとって何の意味をも持たなかったはずの議論に寄与するつもりなどありえたと考えること自体が不適切であるとはまったく指摘しようとはしないのである。

  これは、主張に類似性があることから、本人は全く意図しようのなかった議論に巻き込まれた例ですが、そもそも本人が全く主張していないことに巻き込まれることもあります。

 さらに、所与の作者が原理的には述べるつもりであったかもしれないが、実際には伝える意図のなかった教義をあまりにも簡単に「読み込む」という(もっと油断のならない)危険がある。たとえばリチャード・フッカーが『教会国家の法』(第一巻一〇章四節)の中で、人間の本性的な社会性について述べたところを考えてみよう。われわれは、フッカーの意図(彼がするつもりであったこと)が、単に同じ問題に言及している多数の当時のスコラ的法律家と同様に―教会の神的な起源を国家のより世俗的な起源から区別することにあったのではないかと感ずるであろう。ところが、フッカーを「フッカーからロック、ロックからフィロゾーフへ」と続く「系譜」の最初の人物に見立ててしまう現代の解釈者は、いとも容易にフッカーの言葉を、彼における「社会契約の理論」に他ならないとされるものに変えてしまう。

 正直、私はマルシリウスもフッカーも全く素人なので「ふうん、そういうことがあったのか」というぐらいにしか読めず特に解説できませんが、読めばおおよその意味は分かると思います。

 こうした試みは、「作者の隠れた意図を探ろうとしている」と言い換えれば、何だか正当なもののように思われてくるのですが、スキナーはこうした考え方もバッサリ斬り落としています。

 …ある所与の作者が、彼の言っていることの中で何らかの「教義」を仄めかしているかに思われるこれらすべての事例において、われわれは、同一の、本質的で、しかも本質的にあらためて証明を要する問題に直面させられる。それは、仮にこれらすべての作者が彼らに帰されている教義を表明するつもりであったと主張されるとして、ではなぜ彼らはそれほどまでに甚だしくその表明に失敗し、結果的には歴史家が、推測や漠然としたヒントから彼らの言外の意図を再構成せざるをえなくなっているのか、という疑問である。これに対して説得力ある唯一の解答は、もちろん、その主張それ自体に致命的なものである。すなわち、作者はそのような教義を述べるつもりはおよそなかった(いや、そのつもりになることすらできなかった)というのがそれである。

 我々が、ある著作から漠然としたヒントを見出し、そこから、作者の隠された「教義」を読み取ったとしましょう。なぜ、作者はそんなことをする必要があったのでしょうか? そのように伝えたいことがあるのならば、そう書けばよかったはずです。我々が「作者の言外の意図」を再構成せざるを得ない時点で、それが本当の「作者の意図」なのか、疑問を持たねばならないのです。

 さて、中国学に引き付けて考えると、「時の権力者に処罰されないように筆を曲げざるを得なかった」という話はよくありますから、「言外の意図」の再構成が無意味とまで言われると、抵抗があるかもしれません。もちろん、正当な再構成もあるでしょう。必ずしも厳密に受け止め過ぎる必要はないかもしれませんが、こうした危険性があることを頭に置いておくことで、より慎重な研究ができることは確かでしょう。(※「行間を読む」ことについてのスキナーのより細かい批判は、また後に取り上げます。)

 

 少し、実際の例で考えてみましょう。(また宣伝してしまいますが)先日公開した『鄭玄から見る中国古典』の第七章で、鄭玄を「後漢政治イデオロギーの強化者」として見る研究を批判しました。過去のこうした研究は、ここでスキナーが言う「知の伝記の神話」とそっくりではないか、と思います。

 例えば、過去の一部の研究には、「鄭玄説」と「後漢の政治体制」が一致している例を挙げ、鄭玄が後漢体制を正当化する目的があったと主張するものがあります。しかし、鄭玄にそのような意図があったのなら、なぜそうはっきり言わなかったのでしょうか。別に政権に反抗する内容ではありませんから、馬融や王充のように、堂々と漢王朝を宣揚すればよかったはずです。

 鄭玄の注釈が漢制と一致しているというだけでこうした方向性を見出すのは、スキナーのいう「言外の意図」や「隠された教義」を読み取ってしまうものではないか、と思うわけです。

 ―と、以上は一例ですが、このように分野を越えて議論の点検に使うことができる概念を、スキナーは提示してくれているわけです。

 

 さて、少し脱線してしまいました。スキナーは個人の知の伝記の神話から進んで、「観念史」において生み出される神話について説明しています。具体例は省略し、ここに生じる二つの誤謬を説明する文章を見ておきましょう。

 教義をこのように実体化することは、続いて二つの歴史的背理を生み出す。…まず第一に、理念型に近いものを求めようとする傾向は、後に成立した教義を「先取りするもの」がより前の時代にあったと指摘すること、そしてそれぞれの作者をこうした千里眼的視点から評価することだけをひたすら考える、およそ歴史とはいえない代物を生み出す。…

 観念史の生み出す第二の歴史的背理は、所与の観念が所与の時期に「本当に出現した」と言えるか否か、そして、それが作者の作品の中に「本当に存在する」か否かという問題をめぐる果てしない論争―経験に基づくかのようなポーズはとるが、ほぼ全面的に言葉の上での論争―である。

  以上の内容をざっと見ると、ちょっと反発を覚えるところがあるかもしれません。「そんなこと言われたら何も研究できなくなるよ」と言いたくもなってしまいます。しかし、こうした原理的な批判を知っておくことで、自分が研究を進める際、弱点を減らしていくことが出来るはずです。

 しばらくはこんな感じの内容が続きますが、ではどうするべきか、ということもスキナーは最後に述べてくれています。まだまだ読み進めていくことにいたしましょう。

→次回はこちら

(棋客)