達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(4)

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  前回の続きです。クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1990)を読んでいきます。

 スキナーは、作品・著作の理解に当たっての適切な方法が何かという問いに対して、二つの解答を提示しました。

  1. あるテクストの意味を決定し、それゆえにテクストを理解する試みに対して、「最終的な枠組」を提供するのは「宗教的、政治的、経済的な諸要因」のコンテクストであると主張する。
  2. テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける。

 まず、②のアプローチが生み出した「神話」を紹介していて、前々回が「第一の神話」、前回が「第二の神話」、今回は「第三の神話」と「第四の神話」です(p.74-98)。

 スキナーは、第一・第二の神話は、抽象的な議論を進める上では増殖するが、歴史家が個々の作品の内容・議論を記述するだけではあまり生じないとします。しかしその場合においても、他の「神話」が生じるとし、これが第三・第四の神話です。第三の神話は、「予期の神話」です。

 まず、ある古典的テクストの議論がわれわれに対してどのような意義をもっていると言われうるかを考察するに当たって、著者自身が何を言うつもりであったかを分析する余地をまったく残さないような形で、しかも、どうやら解釈者本人は相変わらずその分析をしていると思い込みながら、その作品およびその意義を記述するということが容易に行なわれる。この混乱に特徴的な結果は、予期の神話とでも名づけうるような型の議論である。言うまでもなく、そのような混乱が最も容易に生ずるのは、歴史家の方で、ある歴史的な作品や行為が、その行為主体自身に対して持っていた意味よりも、その回顧的意義に―そのこと自体は正当であろうが―関心を持つ時である。そこに発生する好例が、そのような時間関係で見られた状況をめぐる最近の一つの重要な議論の中に見られる。われわれは、ペトラルカのヴァントゥ山への登山とともにルネサンスの時代が始まった、という言い方をしたいと思う。ところで、こうした言い方は、いささかロマンティックに、ペトラルカの行為の意義と、したがってまたわれわれにとっての関心との双方を正しく説明していると言われるかもしれない。しかし問題は、この記述の下での説明は、ペトラルカが意図したいかなる行為の真の説明でもなく、したがってまた彼の実際の行為の意味のそれでもまったくありえないというところにある。そもそも「ルネサンスを始める」という意図などあるはずもなかった。というのは、「そのように表現するには後の時代になって初めて手にしうる概念を必要とする」からである。要するに、予期の神話の特徴は、観察者がおそらく正当にも所与の陳述や行為の中に発見したと主張しうる意義と、その行為それ自体の意味というそもそも非対称な二つのものを一つに融合させてしまうことにある。…

 上の問題は、歴史的考慮を行えばすぐに解決するように思われますが、それでも問題は残ります。それが第四の神話、「偏狭性の神話」です。

 だが、以上のように、たとえ必要なあらゆる歴史的考慮が十分になされた上でもなお、所与の古典的なテクストの内容や議論を正しく記述するためには問題が残る。というのは、観察者が歴史を一種の遠近法で見ることによって、所与の作品の意味(sense)や、意図された言及対象を誤って記述してしまう可能性がなおあるからである。その結果生まれるのが、偏狭性(parochialism)の神話である。この危険は、言うまでもなく、自分のとは異なる文化や馴染みの薄い概念体系を理解しようとする試みにはどこでもつきまとうはずの危険である。すなわち、観察者が彼自らの理解を自身の文化内で首尾よく伝える見通しを立てようとすれば、どうしても、自分に馴染みの分類と区別の基準を用いなければならない。これは明らかに危険ではあるが同時に不可避的でもある。こうして、観察者が異文化に属する議論を研究する過程で、(実質上というよりも)見かけ上「身近な」何物かを「認め」、その結果、誤解を生みかねないほどに馴染み深く見える記述を行なうという危険が生ずるのである。

 そしてスキナーは、「偏狭性の神話」の二つの実例を挙げます。一つ目は「影響関係」が全くないところに「影響」を見出してしまうパターンです。

 実際、思想史の著作においてとくに目立つのは、そうした偏狭性の二つの実例である。まず第一に、歴史家が古典的テクストの中のある所与の陳述の言及対象であるかに見えるものを記述する際に、自らの有利な位置を誤用する危険がある。すなわち、ある作品の中の議論が、歴史家に、たまたまそれ以前の時期の何かの作品にも同様の議論があったと想い出させるか、またはその同様の議論とは矛盾すると思わせることがあるであろう。いずれの場合も、歴史家は誤って、前の時代の作者に言及するのが後の時代の作者の意図であったと考えるようになり、かくして、誤解を招きかねない仕方でそれ以前の作品の「影響」について語るようになるかもしれない。ところで、疑いもなくこの影響という概念は(原因から区別されなければならないとするならば)きわめて曖昧な概念ではあるが、さりとて説明能力を欠いているわけではまったくない。しかし、危険なのは、この概念を、しかるべく適用するための十分条件、あるいは少なくとも必要条件が満たされているかどうかをまったく考慮することなく、明らかに説明的に用いるのがいとも容易だということである。

 そしてスキナーは、「影響」関係が成立するためには、以下の三つの条件が必要であるとします。

  1. AとBとの教義の間に真正な類似性がなければならないこと。
  2. BはA以外の作者の中に当該教義を見いだしえなかったにちがいないこと。
  3. 類似が無作為であることの蓋然性がきわめて低いこと(すなわち、たとえある種の類似性があり、Bが影響を受けたのはAからでありうることが証明されるとしても、さらになお、Bは事実問題として、当該教義を独自に表明したのではないことが証明されねばならないこと)

 ここから過去の「影響」に関する学説を点検し、スキナーは、「思想史におけるこの影響研究(Einfuss-studies)のレパートリーは、過去を自らの追想で満たすことによって遠近法的に描く観察者の能力以上のものには基づいていないと言ってもあながち誇張ではない」と述べています。

 二者の著作から類似する点を取り上げてきて、「〇〇には△△の影響が認められる」と論じるのは、よくある手法です。特に、典拠の引用から文章を作ってゆく中国学においては、その引用に深い意味を見出し、影響関係を論じる場合も多いように思います。もちろん、妥当な場合もあるのですが、共通性があるからと言って安易に影響関係を述べられないというのは確かです。

 

 さて、「偏狭性の神話」のもう一つのパターンが以下です。

 思想史にとりわけ目立つ概念上の偏狭性の別な一形態は、観察者が、所与の作品の直感的理解(sense)を記述する時に無意識のうちに自らの有利な位置を誤用することである。すなわち、歴史家がある議論を概念的に再構成する際に、自分にとって異質な要素を、一見明快ではあるがしかし誤解を招きがちな馴染みのものへと置き換えてしまう危険が常に存在する。言うまでもなく、この危険は社会人類学にとりわけ生じやすく、そこでは、理論家と実地調査者両方にとってかなりの、そして自覚的な注意の対象となってきた。この危険の発生は思想史においても同じように重大問題であるが、しかしここでは社会人類学におけるような自覚が破滅的なほど欠如している。…要するに、問題の核心は、思想史家がただテクストの記述のみに向かう時ですら、また、彼のパラダイムがテクストの純粋に組織上の特徴を反映している時ですら、同じ本質的な危険はなお残るということである。すなわち、歴史家が用いる概念の親しみやすさそのものが、それが歴史の素材には本質的に適用不可能であることを覆い隠してしまうかもしれないという危険がそれである。

 以下、4つの神話の総括が入り、②のアプローチを取る場合の欠点が明らかにされました。ここまで四回の記事を費やして、ようやく第二節の内容の説明が終わりました。

 

 次の第三節では、ここまで述べてきた「四つの神話」を避けることが、②のアプローチを取る限り原理的に不可能であることが述べられます。このうち、テクストそれ自体だけに着目して「観念史」を組み立てることに対する二つの本質的な批判を述べる箇所を、掲げておきます。

 まず第一に、たとえある一定の文化や時代の枠内においてでさえ、ラヴジョイ流に、関連するいくつかの言葉の形態の研究に集中するだけでは済まないということは明らかである。…むしろわれわれは言葉の所与の形態が論理的に使用可能な場としての複雑に変化するさまざまな状況のすべてすなわち、言葉が果たしうる機能すべて、言葉を用いてなされうるさまざまな事柄すべてを研究しなければならない。大きな誤りは、「観念」の「本質的な意味」を、必然的に「同一であり続け」なければならないものとして求めることにあるだけではなく、そもそも、(個々の作者が「寄与する」)「本質的な」意味が存在すると考えること自体にある。当を得た、周知の―少なくとも哲学者には周知の―公式を借りて言えば、われわれは、言葉の意味ではなく、その使われ方を学ばなければならない。なぜならば、所与の観念は、一群の言葉という形態を取り、それが時を超えて考えられ、辿られるという意味(sense)において意味(meaning)を持つとはとうてい言えないからである。むしろ観念の意味とは、さまざまな仕方で何事かに言及するためのその使われ方(use)の中にあるのでなければならない。

 私の第二の、そしてはっきりと批判的な主張は、紛れもなく以上からの帰結である。すなわち、もし、観念が出現するあらゆる機会や活動―つまり言語ゲーム―の性質を見ることによってのみ、初めてわれわれは観念を研究することができると主張することに正当な理由があるとするならば、それに対応して、「観念」史研究の企ては端的に根本的な哲学的誤りに基づくと主張することにも正当な理由がなければならないであろう。そして、事実その通りであること、また実際上も「観念」史研究が不可避的な混乱をもたらすことは、ここで容易に例示可能なのである。思うに、その根本的な混乱は、意味と使われ方との間の根本的な違いを拡大してみることによって最も適確に特徴づけることができるのではないだろうか。つまり、その混乱とは、所与の観念を表示するいくつかの言葉(句またはセンテンス)の発現と、個別の主体が個別の場合に個別の意図(その主体の意図)をもって個別の陳述を行なう場合の有意なセンテンスの使われ方とを区別できなかった結果なのである。一つの観念の歴史を書くことは、明らかに、事実上一つのセンテンスの歴史を書くことであると言ってよいであろう。そうした歴史において疑いもなく特徴的なことは、陳述を行なう主体がとにもかくにも姿を現わすのは、ただ、関連した諸観念―社会契約、ユートピアの観念、存在の偉大な連鎖等々―が彼らの作品の中に発現し、その点で彼らがそれらの観念の展開に寄与したと見られるという理由によってのみ、ということである。だがそのような歴史には、そこからわれわれが知ることができないいくつかの点がある。まず第一に、観念が、たまたまそれに言及した個々の思想家の中で、些少であれ、重要であれ、いかなる役割を演じたか、あるいは、その観念が、それが現れた所与の時期の知的風潮の中で、その風潮に沿ったものであれ外れたものであれ、いかなる位置を占めたか、ということをわれわれは知ることができない。その場合にも、われわれは、おそらく、その表現が、さまざまな問題に答えるために、さまざまに異なる時代で用いられたことは知るであろう。しかし、それでもなお知りえないのは、―コリングウッドのきわめて重要な論点を引用すれば―その表現の使用が、いかなる疑問に答えるものと考えられたか、またそれを用い続けた理由は何であったかということである。したがって、こうした歴史からは、所与の観念が、異なるそれぞれの時代においてどのような地位を持っていたかを把握することは決してできず、結果として、その観念の重要性や価値についていかなる適切な歴史的理解を獲得したとも結局は言われなくなるのである。第二は、こうした歴史からは、ある表現がそれを用いた主体にとってどのような狙いを持っていたか、また、その表現自体がどれほどの使用範囲に耐えられるものであったかのいずれをも知ることができない。したがって、そのような歴史からは所与の表現がどのような意味を持っていたかを本当に把握することは決してできず、結果として、そのような研究からはその観念自体の発現すらついに理解したとは言われないのである。

  「むしろ観念の意味とは、さまざまな仕方で何事かに言及するためのその使われ方(use)の中にあるのでなければならない」というところから、次章のコンテクスト研究へと話が繋がっていきます。

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(棋客)