達而録

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クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(3)

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 前回の続きです。クェンティン・スキナー『思想史とはなにか―意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節編訳、岩波書店、1990)を読んでいきます。

 少し振り返っておくと、スキナーは、作品・著作の理解に当たっての適切な方法が何かという問いに対しては、以下の二つの解答があると言いました。

  1. あるテクストの意味を決定し、それゆえにテクストを理解する試みに対して、「最終的な枠組」を提供するのは「宗教的、政治的、経済的な諸要因」のコンテクストであると主張する。
  2. テクストの意味を解くために必要な唯一の鍵としてテクストそれ自体の自律性を主張し、「全体のコンテクスト」を再構築しようとするいかなる試みをも「余計な、そしてひときわ有害なこと」として斥ける。

 まず、②のアプローチが生み出した「神話」を紹介しています。前回が「第一の神話」(個人の知の伝記、また観念史において生じる問題)、今回が「第二の神話」です(p.60-74)。

 このように、教義の神話の第一の型は、古典的な理論家の一人が散発的に、あるいはたまたま行なった事柄を、以上見てきたようなさまざまな形で、歴史家の側で期待して構えている、テーマの一つについてのその理論家の「教義」と取り違えることから生まれると言ってよい。これに対して、次に見るこの神話の第二の型は、その裏返しとも言うべきものであって、ここでは、歴史家によって指定されたテーマの一つに対して、明白にそれとわかるような教義を提出するところまで行くことにかなりはっきりと失敗してしまった理論家が、その失敗ゆえに批判されることになる。…

 この形の教義の神話のうちでも代表的なものの中心をなすのは、何といっても、古典的理論家の主題にふさわしいと認められてはいるが、実はなぜか彼らが論じなかった教義を彼らに帰するところにある。…そこには常により陰険な底意を潜ませうるのである。つまり、それは、無害な歴史的考察の下で、自分の偏見を最もカリスマ的な名前と結びつける手段とすることである。かくして歴史は、死者と戯れる一組の手品となるのである。しかし、最も普通の戦略は、所与の理論家が言及すべきであったと主張されるが、実は言及していない教義をとらえてきて、彼の、いわゆる怠慢を批判することである。…たとえば投票や意志決定の過程についての、あるいは一般的に世論についての問題近年のデモクラティックな政治理論においては甚だ重要であるが、近代の代議制デモクラシーの確立以前の作者にはほとんど関心のなかった問題の政治思想における位置を考えてみよう。歴史研究におけるいわば差し止め通告は、もうこれ以上追加する価値はほとんどないと思われるかもしれないが、にもかかわらず従来の通告は、注釈者たちがプラトンの『国家』を「世論の影響」を「なおざりにした」として批判するのを差し止めるのに実際十分ではなかった。それはまた、ロックの『統治二論』第二部を、「家族や人種についての言及」を怠り、普通選挙に対してどのような立場に立つかを「完全にはっきり」させていないとして批判することを差し止めるのに十分でなかったし、また、「政治や法を論じた大作者たち」のうち誰一人として意志決定の議論に紙面を割かなかったことを特筆すべきことと見做すのを差し止めるのにも十分ではなかったのである。

 最近は、こういう研究はあまり見かけないかもしれませんね。一昔前の論文を見ると、常套手段というほどによく見受けられた方法です。

 この「第二の神話」のもう一つのパターンが、「一貫性の神話」です。

 さて次に、過去の思想に近づく時に歴史家が不可避的にある構えを持つという事実から生み出されがちな神話の第二の型を取り上げよう。所与の古典の作者がまったく首尾一貫せず、また自らの信念を体系的に説明することすらできない場合がある。(実際、これはきわめてしばしば起こることである。)これまでは、歴史研究を行なうための基本的なパラダイムは、その学問分野に最も特徴的なテーマに関するそれぞれの古典の作者の教義を詳細に述べることであると考えられてきたが、もしそうであるとするならば、歴史家がこれらのテクストそれぞれに欠けているかに見える一貫性を補うか、あるいはそれらの中に何とか一貫性を見いだすことを自らの任務と考えるのは、危険ではあるが容易な成り行きである。言うまでもなく、そのような危険はまず、作品を言い換えるに際して、その作品に特有の語勢や語調を損なわないようにする上でのよく知られた困難によってまず増幅され、次いでその結果生まれる誘惑、すなわちその作品から抽出され、しかも伝達がはるかに容易な「メッセージ」を見つけようとする誘惑によってさらに増幅される。…ここから不可避的に結果することは―それは概説的で教育向けの歴史などよりもはるかにまともな文献から例証されうるのだが―一貫性の神話とでも名づけてよい形式の書き方である。…研究者の課題とはこのようなものだと繰り返される中で、最も象徴的な事実は、努力と探求というメタファーが不断に使われていることである。目指されているのは、常に、「統一的解釈」に「到達する」こと、すなわち、「著者の体系についての一貫した見解」を「獲得する」ことである。

 この手続きは、さまざまな古典的作者たちが決して達していなかった、いや達するつもりがあったとも思えない一貫性や、また体系が全体的に完結しているかのような雰囲気を彼らの思想に与えてしまう。たとえばルソーの思想を解釈する仕事は彼の最も「基本的な思想」の発見を中軸としてなされなければならないと最初に仮定される。そうすると、ルソーが何十年にもわたっていくつかのまったく異なる研究領域に寄与したことは、いとも簡単に、重要な事柄とは思われなくなってしまう。またホッブスの思想のあらゆる側面が、彼の「キリスト教的」体系全体に対して寄与するために構想されたと最初に仮定されてしまうと、倫理と政治生活の関係という非常に重大な問題点を解明するためならば彼の自叙伝に眼を向けてもよいのではないかなどという提案が異常だとは思われなくなってしまう。…これらすべての場合、こうして発見された一貫性、またはその欠如は、もはや、現実に思考されたものとしてのいかなる思想の歴史的説明でもなくなってしまう。また、こうして書かれた歴史は、思想の歴史では少しもなく、抽象概念の歴史になってしまう。すなわちそれは、誰一人として現実には到達したことのない水準の一貫性を持った、誰一人として現実には成功しなかった思想の歴史なのである。

  ここでは、著者の体系についての一貫性を想定し、そこから研究を進めることの危険性が述べられています。ここから、本人が到達しようとさえ考えていなかった体系に到達してしまうことになります。

 鄭玄研究の場合で言えば、彼が経書・緯書の全体の位置づけを明らかにし、これらを相互に理解しようと試みていたことは分かります。そして経書・緯書の記述内容を、体系的に分類し、解釈していたことも分かります。しかし、だからといって、鄭玄の著作全てが必ず統一的に理解できるというわけではありません。実際に、そこかしこに矛盾や不統一は現れているのであって、これを「一貫性の神話」によって、無理やり鄭玄説が矛盾しないように読み解いてしまう行為は慎むべき、ということになります。

 

 そしてスキナーは、「一貫性の神話」が生み出す二つの誤謬を指摘しています。具体例は省略し、その二種の概要を見ましょう。

 まず第一の方向は、ある著者の作品からより高次の一貫性をもつメッセージを引き出すためには、自分のしていることについて著者自らが述べたと思われる言明を度外視することも、いやそれどころか、著者の体系の一貫性を損なうような作品をすべて無視することすらまったく妥当であるという驚くべき、しかもさほど異例ではない仮定である。

 …一貫性の神話が生み出す形而上学的信仰にはまた別の形態がある。それは、解釈者が義務として明らかにするにふさわしい何らかの「内的一貫性」を作者が示しているはずだというにとどまらず、その作業に対して、所与の作者の作品が実際もっているかに見える矛盾が作り出している見かけ上の障壁は、矛盾が実は矛盾ではありえないがゆえに本物の障害ではない、というものである。…代わりにしばしば言われるのは、そのような見かけ上の不一致は未解決の状態のままに放置されるべきではなく、「理論全体のより完全な理解」を助けるものとして役立たされなければならないということである。つまり、そこでの矛盾は、おそらく理論自体の中でいまだ純化されない部分と考えられるであろう。

 例えば、鄭玄は、経書・緯書に対して聖人の著述としての「一貫性」を想定し、一見矛盾に満ちた内容も、それぞれ実は指す対象が異なっていて、円満に解決できるとして注釈を作っていきます。これは、「一貫性の神話」を作り出した例として見ることもできますね。

 

 さて、スキナーは、「一貫性の神話」の擁護として、「著述行為に対する迫害の影響を認める」という方法があると述べます。つまり、迫害の時代には真の意図は作品の「行間」に隠されており、表向きには矛盾したことを言っているかに見えるとしても、実は「彼が支持しているらしく見える正統の考えに実際には反対していることを示すシグナル」であると読むわけです。

 これに対する批判として、スキナーは以下のように述べています。

 まず第一に、矛盾を解こうとするこの探究は、議論の方向を「オリジナルなものは破壊的である」という論証抜きの仮定から全面的に引き出している。というのは、この仮定の上に、われわれはいかなる場合に行間に書かれていることを探すべきかを知るからである。そして第二に、行間を読むことに基づくいかなる解釈も、「思慮を欠く人間は不注意な読者である」という彼らが言うところの「事実」によって、実質的に批判を寄せつけないことである。というのは、(純粋に意味論的に言って)これは、行間にメッセージを「読む」ことができないのは思慮を欠くことであり、他方、それを「読む」ことができるのは信頼できる知的な読者であると主張することに等しいからである。しかし、もしわれわれが、いかなる場合にわれわれは当の「迫害の時代」の一つを問題としているのか、あるいはしていないかを知るための、したがってまた、いかなる場合に行間にあるものを読みとるよう努めるべきか否かを知るためのより純粋に経験的な判断基準をさらに突っ込んで求めようとしても、行き着くところは結局、二つの循環論法でしかないわれわれはどんな場合に行間を読む試みをやめるべきか。与えられる唯一の判断基準は、「やめないのが的確ではなさそうな時」である。また、われわれが行間を読まなければならないと考えられる迫害の時代とは何か。われわれは一方で、当該の書物が確かに秘密の内容を含んでいると予測されるならば、「それは追害の時代に書かれたにちがいない」と告げられ、他方では、迫害の時代とは異端的作者が行間に「書く特別の技術」を開発する必要のある時期と定義されると告げられる。こうして、二律背反の解決をうたうスコラ的なこのあけすけの弁護にもかかわらず、所与の作者の教義の「内的な統一性」を求めようとするあらゆる企ては、統一性の神話―この方法に従って書かれた歴史には、過去に現実に考えられた思想についての純粋に歴史的な報告はほとんど含まれないという意味での神話―以外の何物かを生み出しうるとはおよそ考えられないのである。

 「行間を読むことに基づくいかなる解釈も、「思慮を欠く人間は不注意な読者である」という彼らが言うところの「事実」によって、実質的に批判を寄せつけない」―非常に鋭い指摘です。

 こうしたスキナーによる過去の研究の論理の分析を見ていくと、これが「経学」において儒者たちに繰り返されてきた手法とそっくりであることに驚かされます。著述行為に対する迫害の影響を認め、その行間を読むことに傾斜した学問なんて、漢代以来の「春秋学」の営みに他なりません。

 というのも、春秋学者たちは、孔子は時の権力者に自著が見られて勝手に修正されることを予期し、権力者への毀誉褒貶をわざと分かりにくい表現で書き入れた(微言大義)、と想定します。ここから、孔子の意図を行間から読み解こうとし、その営みを批判する者は「『春秋』の義例に詳しくない者」として排除されてしまいます。

 

 なかなか面白いものですね。まだまだ続きます。

→次回はこちら

(棋客)