達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

洪誠『訓詁学講義』より(2)

 前回に引き続き、洪誠(森賀一恵・橋本秀美訳)『訓詁学講義―中国古語の読み方 (中国古典文献学・基礎篇)』(アルヒーフ、2004)から、気になる条を取り上げていきます。

 今回は、第三章「閲読に必要とされる基本原則」第七節「構文規則」のうち、「五、古人が上古の文法を知らずに文義を誤解した事例」(p.181-183)から、『論語』の一節の解釈を取り上げます。今回の課題となるのは、『論語』の以下の一節です。

論語』公冶長
 子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也;夫子之言性與天道,不可得而聞也。」

(訓読)子貢曰く「夫子の文章、得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。」

 まず参考までに、旧注(何妟集解)の解釈を掲げておきましょう。

 章,明也。文彩形質著見,可以耳目循。性者,人之所受以生也。天道者,元亨日新之道。深微,故不可得而聞也。

 旧注では、孔子の「文章」は、形にあらわれるものであるから、見たり聞いたりすれば従うことができるが、孔子の「性・天道」は、深くかすかなものであるから、聞くことができない、という解釈を取っています。

 もう一つ、参考までに、『論語』の吉川幸次郎訳を見ておきましょう。

 子貢がいった。先生の文章を、われわれは、聞くことができる。しかし、人間性と、宇宙の法則についての先生の議論は、聞くことができない。(吉川幸次郎全集4、p.129-130)

 吉川氏は、この章について、「孔子の学問はがんらい即物的であり、抽象的でも思弁的でもなかった、と主張する学者たち―すなわち清朝の学者たちが、もっともしばしば引く章である」と解説しています。

 

 では、洪氏が挙げる解釈の例を見ていきましょう。まず、顔師古の解釈です。

・『漢書』李尋傳・顔注
 性命玄遠,天道幽深,故孔子不言之也。此皆『論語』述子貢之言也。

・『漢書外戚傳・顔注
 『論語』稱子貢曰:「夫子之文章可得而聞也,夫子之言性與天道不可得而聞也已矣」謂孔子不言性命及天道。

 どちらも、「故孔子不言之」という方向で理解しています(本書では「孔子が言わないので聞くことができない」と翻訳されています)。そして洪氏は、この解釈は、「夫子之性與天道」とあることと矛盾すると批判します。

 ちなみに、二つ目の顔注には、続きに「而學者誤讀,謂孔子之言自然與天道合,非唯失於文句,實乃大乖意旨」とありますから、顔師古の時代から、この条の解釈は問題になっていたのでしょうね。

 

 次は、李翱の説です。『論語筆解』に引かれています。翻訳は、森賀・橋本訳をそのまま利用させていただきました。

 天命之謂性,是天人相與一也。天亦有性,春仁、夏禮、秋義、冬智是也。人之率性,五常之道是也。蓋門人只知仲尼文章,而少克知仲尼之性與天道合也。

 天命のことを「性」というから、天と人は合一の関係にある。天にも性がある、春仁・夏礼・秋義・冬智というのがそれである。人の性というのは、五常の道がそれである。ここは、門人たちは仲尼の文章だけを知っていて、仲尼の性が天道と合致していたことを知る者が稀だったということであろう。

 ここでは、「不可得而聞也」が、門人たちのなかで知るものが稀だったことを言う、という解釈で読まれています。

 次に引かれるのが鄭汝諧『論語意原』の解釈です。同じく、森賀・橋本訳を引用しています。

 性與天道至難言也,夫子寓之於文章之中,惟子貢能聞之。

 性と天道は言葉にするのがきわめて難しく、夫子は文章の中にその意を寓し、子貢だけがそれを聞くことができた。

 これも李説と似ていて、「不可得而聞也」を、弟子たちの多くは聞くことができなかった(子貢だけが聞くことができた)、という方向で読んでいますね。

 

 次、朱子注が引かれています。同じく、森賀・橋本訳を引いておきます(少し省略があり、訳と原文は完全には一致しません)。

 至於性與天道,則夫子罕言之,而學者有不得聞者。蓋聖門教不躐等,子貢至是始得聞之,而歎其美也。

 性と天道は、夫子は稀にしか語らなかった。子貢はこの時初めてそれを聞くことができて、その美であることに感嘆したのである。

 ここでは、「性與天道」が「不可得而聞」というのは、孔子は性・天道を稀にしか語らず、弟子には聞くことのできない者がいた、という解釈になっています。

 ほか、張栻、顧炎武、章学誠などさまざまな学者の説が引かれますが、洪氏はどれも明快さに欠ける説として批判しています。

 

 では、洪氏が正しいと考える解釈は何なのか、というのが気になります。洪氏が正解として挙げるのが、戴震『孟子字義疏証』序に見える解釈です。

 自孔子言之,實言前聖所未言。微孔子,孰從而聞之,故曰:不可得而聞。

 孔子が初めてこれを言ったのであり、それは実はそれ以前の聖人たちも言っていなかったことなのである。孔子がいなかったら、誰からこの言葉を聞くことができるだろうか、ということで、「不可得而聞」というのである。

 そして最終的に洪氏の掲げる訳文が以下です(同じく、森賀・橋本訳より引用)。

 子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也;夫子之言性與天道,不可得而聞也。」

 子貢はこういった―「孔子の語る礼楽制度は、(他の人から)聞くことはができるかもしれないが、彼の語る性と天道の哲学的な問題は、彼個人の独創的見解で、(他の人から)聞くことはできない」

 そして、この一段の構文を、以下の点を挙げて説明しています。

  • 上文は、下文に出るのを見越して「言」が省略されている。
  • 「聞」の間接目的語の主語(「他の人」)は、不特定のために省略されている。
  • 「夫子之文章」と「夫子之言性與天道」が「聞」の対象で、それぞれ上文・下文の主語になっている。
  • 「聞」は二文の述語で、「可得」は助動詞。
  • 先人は、「夫子」を「聞」の間接目的語という前提で説を立てているが、これではどうしても論理が通じない。

 つまり、「可得而聞也」と「不可得而聞也」は、それぞれ「他の人からは」という言葉を補って読むべき、ということです。洪氏は、「聞」字のこの用例を他にも挙げながら説明しています。論理の通った明快な解釈と言えるでしょう。何より、漢字をそのまま、素直に読んだ解釈というのがよい点です。

 

 簡単そうに聞こえますが、文字通り素直に読むことが一番難しいのです。最後に、洪氏の言葉を引用しておきます(p.180)。

 学者の中には、先入観を持っていて、文字の表す本来の意味に照らして説明しようとせず、自分が主観的に想定する古人はこういったはずだという内容に合わせて無理やりに解釈し、故意にことばの本意を歪曲する者がいるので、無意味な解釈上の議論がよく起こったのである。

 次回の記事はこちらです→洪誠『訓詁学講義』より(3) - 達而録

(棋客)