達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

勝手気ままな「訳書」紹介―前置き|中国思想の翻訳書について

はじめに

 中国思想を専門とする研究室には、よく「良い訳書を教えてほしい」という声が届きます。しかし著名な古典となると数々の学識の高い先生が訳されていますから、一概にどれが良いとは言い難いものです。それは単に訳の良し悪しではなく、元々の方針の違いに由来することもしばしばあり、尚更一口には言えないところがあります。

 さて、一口で言えないのならば、まとまった文章を作ればよい話です。「紹介」というほど高尚なものが書けるとは思いませんが、我々自身の便宜のためという体裁で、各訳書の一覧を作ってみたいと思います。需要が高く、かつ専門に近い『論語』、『孟子』を先にまとめます。いつになるか分かりませんが、老荘や他の経書にも進んでいきたいですね。

 

 数点、おことわり。

 一点目。全て網羅することは不可能です。流石にビジネス書の類は無視するにしても、抜けがあることは必須です。何かありましたらご教授ください。

 二点目。私自身が全て読了しているわけではありません。記事を書くにあたって出来る限り目は通しましたが、そもそも読んだところで、あくまで参考程度にご利用ください。なお、全体的に「古めかしい」チョイスになっている感じは否めません。

 参考文献として、『アジア歴史研究入門Ⅲ』(同朋社、1983)二松學舍大学『中国学入門 : 中国古典を学ぶための13章』(勉誠出版、2015) *1を挙げておきます。五経であれば野間文史『五経入門:中国古典の世界』(研文出版、2014)に整理されています。

 

 

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 とりあえず今日のところは、中国古典の「訳書」について整理する上で、前提となることについて書いておきます。

 

 翻訳書には2種類ある

 中国古典の訳書には、大きく分けて二つの種類のものが存在すると言えます。

 一つ目は、「もともとその古典が何を言わんとしていたのか」を明らかにするため、学者が本文に訳文を逐一付して、自らの見識を示したもの。恐らく、多くの方が一般に「訳書」と聞いた時に思い浮かべるもの。

 二つ目は、「その古典がどう読まれてきたのか」を明らかにするため、歴史上広く受け入れられた特定の解釈に完全に依拠し訳文を作ったもの。または、過去の様々な解釈を一覧にしたり、併存させたりするもの。

 

新解釈を提示するタイプ

 実際、多いのは一つ目のタイプの訳書です。例えば『論語』の訳書ならば、最新の研究成果を踏まえて『論語』が書かれた時代の背景や社会を新たな形で想定し、自身の知見を下敷きに、(基本的には「これこそが孔子の本来の意図だ」という方向で)先人未発の新解釈を提示する、といった具合です。

 

伝統的解釈に従うタイプ

 一方、二つ目のタイプの訳書は、それほど多くはありません。「広く受け入れられてきた解釈」とはどういうことかというと、ある古典が作られたのち、後の世代の人によって読解のために附された「注釈」を指しています。同じ漢文といっても、時代の経過によってその古典は簡単には読めない文章になっているわけで、そこを補うために学者が注釈を付けるわけです。そしていつしか、その古典はその有力な注釈とセットで読まれることになります。

 古い注釈による『論語』理解なんて時代遅れだ、というのは的を外した批判です。『論語』が古典として崇拝されているのは、それを伝えてきた人々が崇拝し、受け継いできたからに他なりません。「『論語』の内容が素晴らしいから」という要因は、あくまで二次的なものに過ぎないでしょう。『論語』が古典として現代まで伝えられてきた理由、即ち「『論語』がどう読まれてきたのか」という文脈を知りたいのであれば、この種の訳書によるしかありません。(そしてこれを研究するのが、「思想史」と呼ばれる分野です。)

 イメージしやすいように、二つ目のタイプの訳書の代表例である島田虔次『大学・中庸』(『中国古典選』朝日新聞社、1967)の冒頭を掲げておきます。

 まず最初におことわりしておきたいのは、本書がけっしてわたくし独自の研究、見識にもとづく独自の注釈書ではない、ということである。そうではなくて徹頭徹尾、朱子学の、否、朱子その人の注釈、解釈の紹介、万やむを得ずしてわたくし自身の解釈をしるさねばならぬとしても、できるだけ朱子その人の立場に立とうと試みての注釈―それが本書のめざしたところに他ならない。(島田虔次『大学・中庸』―『中国古典選』朝日新聞社、1967、p.1)

 これは訳書としてはやや極端な例ですし、そもそも翻訳する以上は必ず訳者の解釈が入ってきてしまうものですから、完全に過去の解釈に準拠するのは難しいかもしれません。しかし、訳書を読むときに、「最新の研究に基づき自分の新解釈を出す」ことを指向する本なのか、はたまた「旧説を整理しどう読まれてきたのか探る」ことを指向する本なのか、そのぐらいのことは最初に確認して読み始めると良いと思います。

 前者の類の訳書を読み、孔子の時代そのものに思いを馳せてみたり、碩学の士による自由で新しい解釈を楽しんだりするのも面白いでしょう。また、後者の類の訳書を読み、かつて人々が如何に古典を読んできたのか、探ってみるのも楽しいでしょう。大きく言えば、これは古典研究における関心の置き所の違いということに繋がってくるかもしれません。

 

 以上は私が書いた文章ですが、実は似た内容が、橋本秀美『論語―心の鏡』(岩波書店、2009年)に、より大きなテーマと絡め論じられています。古典研究とは何か、訳するとはどういうことか、じっくりと考えさせてくれる名著ですし、この本自体『論語』解説として抜群の本でもあります。やや専門的ですが、一読しておくと訳書に臨む態度が大きく変わると思います。

*1:リンクでは2017年の改訂新版