達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

溝口雄三『方法としての中国』の読書案内

 溝口雄三『方法としての中国』(東京大学出版会、1989)を読みました。非常に興味深い内容で、一般の方にも分かりやすく読めるものですので、少し紹介します。ちなみに、溝口氏の『中国の公と私』については、以前記事を書いたことがありますので、合わせてご覧ください。

 今回は、本の題名になっている第五章「方法としての中国」の内容を見てみます。本章は、以下の文から始まっています。(傍線は筆者が附す)

 われわれ日本人が、ヨーロッパの中世や古代に関心をもつ場合、その関心の底部には、意識するとしないとにかかわらず、多かれ少なかれその人なりのヨーロッパ近現代像といったものが横たわっている。(略)たとえばプラトンやダンテを読む人がヨーロッパ近代への知識や関心を全く欠落させている、ということは非常に考えにくいことである。むしろ彼らはそれぞれの近現代像をもとに、それとのつながりにおいて、あるいはルネサンスの来源や淵源という位置づけを無意識裡に施すなどして読んでいるのであろう。

 これに対して中国の古典の場合、『史記』にせよ『唐詩』『碧巌録』にせよ、それらへの関心は中国の近現代への知識や関心とはむしろ無関係に存在していることの方が多い。

 この相違は、ヨーロッパの近現代像が、明治以来、他の世界に時には優越的とさえされたある文明価値をもつと認められてきたのに対し、中国の近現代が一般に文明価値どころか歴史価値そのものにおいて、ヨーロッパはもとより日本にすら劣っていると通念されてきたことと無縁ではない。(p.131-132)

 溝口氏は、上のような通念に抵抗する試みとして、ヘーゲル的またはマルクス的なヨーロッパ生まれの進化史観に依拠し、中国的進化を世界史的普遍に当てはめる形で研究が進められてきたとします。

 しかし、これも結局、それらと関係をとり結びえなかった古代や中世の中国学は、近現代中国とは無縁のまま、近現代中国への関心を欠いたまま、「日本内で即自的に消化されるもの」でありつづけたわけです。溝口氏が本章で問題にしているのは、まさにこの点にあるのです。

 「日本内で即自的に消化される」研究とは、近現代中国への関心を持たないままに進められる、「中国抜きの中国読み」または「中国なき中国学」のことを指しています。

 結論を先にすれば、わたくしはそのような中国なき中国学(すなわち日本漢学)の有害無益の増殖を認めることはできないし、むしろ批判を強めていくべきだと考えるのだが、それはいうまでもなくこれからの自由な中国学の自由度に制限を加えることによってではなく、かえって自由度を高めることによって果たされることである。というのは、ここの自由の意味が、もちろん「進化」離れを含めての方法論上の自由の拡幅を指すと同時に、中国にとっての彼ら自身の復権をめざした彼らの目的をみずからの学の目的意識とするような中国密着的な「目的」からの自由をも指し、こういった自由こそ、これまで以上に中国を客観的に対象化する保証となり、この客観対象化の徹底こそが中国なき中国学にとっての十二分の批判たりうる、と思われるからである。(p.135-136)

  学問をする上で、目的意識に引っ張られてしまうと、結論を恣意的に導いてしまう可能性が高まる、というのはよく分かる話です。

 溝口氏はここから更に、これは「中国学自体の目的までをも放棄すること」を意味しないと述べ、以下のように説明しています。

 学問は理念的にいかなる目的意識からも自由であるべきだとする考え方もあろうが、少なくともわたくしは、それがただ知るだけの中国学に堕するとすれば、それに満足することはもちろんできない。わたくしに言わせれば、ただ知るだけということは、結果的に、中国のあれこれを知ることだけを目的とした、あるいは中国への没入が自己目的化した、そのかぎりでもう一つの中国密着の中国学であるか、さもなければ自己の個人的目的の消費に終始するというかぎりで、もう一つの中国なき中国学であり、真に自由な中国学とは言いがたい。

 真に自由な中国学は、いかなる様態であれ、目的を中国や自己の内に置かない、つまり目的が中国や自己の内に解消されない、逆に目的が中国を超えた中国学であるべきであろう。それは言いかえれば、中国を方法とする中国学である。言わずもがなのことかもしれぬが、方法のための方法――これまでの「目的」的な方法に反対するあまり目的設定自体を否定し、何を何のために知るかよりはどう知るかが優先し、たとえばあれこれの方法論がどうあれこれか、またそれをどう適用させるかに目を奪われ、結果的に対象としての中国が捨象されるといった傾向――に道を拓こうというのではない。(p.136-137)

  結局、上のような志向から生み出される研究を、「中国を方法とする」研究と称するわけですが、溝口氏はこういった方向性の研究の先に、何を見ているのでしょうか。

 今ではわたくしたちは、そうしようと思えば、この中国というよくも悪くも独自な世界を通して、いわば中国レンズでヨーロッパを見ることが可能になり、それにより従来の「世界」に対する批判もできるようになった。たとえば、「自由」とは何なのか、「国家」とは何なのか、「法」「契約」とは何なのかなど、これまで普遍の原理とされてきたものを、いったんは個別化し相対化できるようになった。重要なことだが、それはあくまで相対化であって、いわゆる日本主義的な、日本再発見、東洋再発見ではない。相対化は世界の相対化であるため、当然、自己の世界に及ぶものだからだ。

 われわれの中国学が中国を方法とするというのは、このように日本をも相対化する眼によって中国を相対化し、その中国によって他の世界への多元的認識を充実させるということである。また世界を目的とするというのは、相対化された多元的な原理の上にもう一層、高次の世界像といったものを創出しようということである。(p.138-139)

 では結局、溝口氏のいう方法で研究を進めるとどうなるのか、という実際の記述が『方法としての中国』の他の部分や、『中国の公と私』であるわけです。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

 個人的には、上の文章を読んで、納得できるところとそうでないところと、色々考えることがありました。これを見た上で、氏の専門書である『中国前近代思想の屈折と展開』を読んでみると、また違った角度から見えてくるものがあるかもしれません。

次回に続きます。

(棋客)