達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『論衡』の篇数

 以前、本ブログで余嘉錫の『四庫提要弁証』を取り上げ、『後漢書』についての『弁証』の内容を確認しました。

 今回は、後漢の王充の『論衡』について、『四庫提要弁証』の記述を読んでみることにします。

 『弁証』の内容は、『四庫提要』(四庫全書を作る際に各書に附された提要)の内容を修正したり、新たな情報を付け足したりしたものです。ですから、『弁証』を読むためには、まず『提要』を見る必要があります。下に『論衡』の『提要』を掲げておきました。(文字データは全國漢籍データベース 四庫提要を使っています)

論衡三十卷 江蘇巡撫採進本
 ①漢王充撰。充字仲任。上虞人。自紀謂在縣爲掾功曹。在都尉府位亦掾功曹。在太守爲列掾五官功曹行事。又稱永和三年。徙家。辟詣揚州部丹陽九江廬江。後入爲治中。章和二年。罷州家居。②其書凡八十五篇。而第四十四招致篇有錄無書。實八十四篇。考其自紀曰。書雖文重所論百種。案古太公望董仲舒傳作書篇百有餘。吾書亦纔出百。而云太多。然則原書實百餘篇。此本目錄八十五篇。已非其舊矣。③充書大旨詳於自紀一篇。蓋內傷時命之坎坷。外疾世俗之虛僞。故發憤著書。其言多激。刺孟問孔二篇。至於奮其筆端。以與聖賢相軋。可謂誖矣。又露才揚己。好爲物先。至於述其祖父頑狠。以自表所長。傎亦甚焉。其他論辨。如日月不圓諸說。雖爲葛洪所駁。載在晉志。然大抵訂譌砭俗。中理者多。亦殊有裨於風教。儲泳祛疑說。謝應芳辨惑編。不是過也。至其文反覆詰難。頗傷詞費。則充所謂宅舍多。土地不得小。戶口衆。簿籍不得少。失實之事多。虛華之語衆。指實定宜。辨爭之言。安得約徑者。固已自言之矣。④充所作別有譏俗書。政務書。晚年又作養性書。今皆不傳。惟此書存。⑤儒者頗病其蕪雜。然終不能廢也。高似孫子略曰。袁崧後漢書載充作論衡。中土未有傳者。蔡邕入吳始見之。以爲談助。談助之言。可以了此書矣。其論可云充愜。此所以攻之者衆而好之者終不絕歟。

 『提要』の内容は、大きく①~⑤の部分に分かれています。

  1. 『論衡』の著者である王充についての説明。(著者紹介)
  2. 現行の『論衡』八十五篇本について。(テキスト考証)
  3. 『論衡』の全体的な内容、主旨について。(内容紹介)
  4. 王充の他の著作について。
  5. 『論衡』のその後の流伝について。

 余嘉錫の『弁証』では、このうち①、②、⑤に対しての案語が載せられています。そのうち今日は①・②について読んでみましょう。

 ①についての案語が以下。

嘉錫案、『後漢書』卷七十九(列傳第三十九)有「王充傳」、略云「仕郡爲功曹、以數諫争不合去。著『論衡』八十五篇、二十餘萬言。刺史董勤辟爲從事、轉治中、自免還家。肅宗特詔公車徵、病不行。年漸七十、志力衰耗、乃造養性書十六篇。永元中、病卒於家。」與自紀雖詳略不同、然『提要』之例、凡撰書之人、史有列傳者、皆只敍其名字爵里、而括之曰「事蹟具某史本傳」而已。今此條獨據「自紀」、詳敘其出處、究之、不過歷仕州郡、無大關係、何其不憚煩也。豈不知『後漢書』有傳耶。

 余嘉錫の批判点は、王充は『後漢書』に列伝が立てられてるにも拘わらず、『提要』がそのことに言及しないのはおかしい、ということです。『提要』は、『論衡』の自紀篇だけをもとに王充の経歴を説明しています。もちろん、自紀篇も重要な史料なのですが、『提要』の通例では正史に伝がある場合には必ず言及するので、余嘉錫は『提要』編纂者は『後漢書』に王充の伝があることを知らなかったのではないか、と言っているわけです。

 ②に対する案語が以下。

案、『藝文類聚』卷五十八引謝承『後漢書』曰「王充於宅内門戸壚柱各置筆硯簡牘、見事而作、著『論衡』八十五篇。」、范書本傳亦云「著『論衡』八十五篇、二十餘萬言。」『提要』乃謂「今本八十五篇爲非其舊」、且一字不及范書、是真不知充有列傳矣。考『抱朴子』喩蔽篇亦曰「余雅謂王仲任作『論衡』八十餘篇、爲冠倫大才。」

 『提要』は、『論衡』はもとは百篇ほどあったはずで、現行の八十五篇はもとの姿ではない、と述べています。余嘉錫はこの点を批判しており、まずは謝承『後漢書』、范曄『後漢書』列伝にすでに「八十五篇」と書かれることを挙げます。また、『抱朴子』喩蔽篇にも「八十餘篇」とあります。

『隋書』經籍志雜家類有「論衡二十九卷、後漢徵士王充撰」、疑除其自紀一卷不數、否則唐初所得隋煬帝東都藏本、偶有關佚也。然兩「唐志」皆作三十卷、是其完書具存、今本篇數與本傳合、卷數與「唐志」合、固當是相傳舊本。

 ここは、隋志・唐志に著録される『論衡』が、古くから伝えられた完本であることを述べています。これも、現行の『論衡』に大きく欠落があるとする『提要』の説を間接的に批判しています。

『提要』乃據自紀之文、謂其原書當有百餘篇。今案自紀、歷敍其所著書、有「譏俗書」(十二篇)、「政務書」、「論衡」、「實論」(亦所作書名、提要未引)、然後假或人之論、設爲問答、自辯其著書體裁甚詳。考其文義、蓋自紀一篇、乃統敍平生之著述、不獨爲『論衡』而作。其間所辯者、著書體裁、除指明『論衡』者外、亦兼他著述言之、『論衡』八十五篇、益以「譏俗書」、「政務書」、「實論」、固當有百餘篇、惟「養性書」爲晚年之作、敍在自辯各條之後、不在此數内耳。

 最後に、『提要』が拠った『論衡』自紀篇の文の正しい読解を述べています。余嘉錫は、自紀篇で王充が自分の著述は百篇ほどと書いているのは、『論衡』以外の王充の著作である「譏俗書」、「政務書」、「論衡」、「實論」などを含めてのことである、と言っているわけです。

 少し面白いのは、劉咸炘の『旧書別録』でもほとんど同じ指摘がなされているところです。

 『四庫提要』『論衡』條曰「考其自紀曰、書雖文重、所論百種、案古太公望董仲舒傳作書篇百有餘、吾書亦纔出百、而云太多。然則原書實百餘篇、此本目錄八十五篇、已非其舊矣」。按此説似非也。「自紀」所説並有所著「譏俗節義」十二篇及政務之書、「出百」一語乃承上文並説、下文乃言「養性書」十六篇、尚不在此中也。「佚文」言『論衡』篇以十數、知未出百矣。

 以上をまとめると、現在に伝わる『論衡』は、「招致篇」を除けば、王充が執筆した当時の姿をかなり残していると言えるでしょう。ただ、『論衡』にはそもそも善本(よいテキスト)が少なく、現在見られる本の字句がどれほど正確か、というのはまた別の問題です。

(棋客)