達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

マーベルシリーズ「シャン・チー」に出てくる神獣まとめ

 先日、マーベルシリーズ最新作の「シャン・チー」を観てきました。

 シャンチー象棋、中国の将棋)を嗜む私は、最初にタイトルを見たとき「完全なるチェックメイト」や「聖の青春」のようなボードゲームを題材にした映画かと勘違いしてしまいました。当然、マーベルシリーズにそんな地味な(失礼)作品があるわけもなく、本作は激しいアクションを詰め込んだスーパーヒーローものです。

 本作はアジア、特に中国を舞台にしているのが特徴で、カンフーアクションや太極拳マカオの街並み、鮮やかな神仙世界、柔らかな「気」の表現など、そこかしこに東洋を連想させる要素が込められています。また、全編の3割ぐらいは中国語で会話されています*1

 特に印象的なのが、最後の戦いの舞台となる仙界(といっていいのか分かりませんが、とにかく異世界的な場所)のシーンです。主人公たちは、普段は閉ざされているものの清明節にだけ入り口が開く母の故郷の村(仙界)を訪れます。「清明節」は、先祖のお墓参りをする大切な祭日ですから、特別に村への通り道を開けるということなのでしょう。そしてこの異世界には、独特な姿をした神々しい動物たちが生息しています。

 この映画を観た方が、中国の神話に少しでも興味を持っていただければ嬉しいと思いまして、この仙界に登場する異形の動物たちを少し紹介してみることにしました。

①帝江

 劇の中盤、牢屋に閉じ込められた主人公たちが出会った役者のトレヴァーと戯れている謎の動物は「帝江」です。日本人には「渾沌」と言った方が通じるかもしれません。「顔はどこ?」と訊かれて恥ずかしがる描写があるのは、帝江のアイデンティティである「顔が無い」ことをよく表していますね。

 およそ二千年前、漢代ごろに作られたとされる『山海経』という中国古代の地理書には、神仙や妖怪の類が色々と記録されています。ここに「帝江」の話も出てきます。

山海経』西山経

 又西三百五十里,曰天山,多金玉,有青雄黃。英水出焉,而西南流注于湯谷。有神焉,其狀如黃囊,赤如丹火,六足四翼,渾敦無面目,是識歌舞,實惟帝江也。

 西方三百五十里には、「天山」という山があり、金と玉が多く、鶏冠石がある。英水がここから出て、西南に流れて湯谷に注ぐ。ここには神がいて、その形は黄色の袋のようで、煉丹の炎のように赤く、六本の足と四つの翼がある。渾沌としていて顔や目が存在せず、歌舞に詳しい。まことにこれこそが帝江である。

 役者であるトレヴァーと仲良しなのが、歌舞に秀でたとされる帝江というのは、なかなか凝った設定ですね(偶然の一致かもしれませんが)。

 なお、『山海経』は慣用で「せんがいきょう」と読みます。各地の風土を記しながら、様々な不思議な逸話を伝える、なかなか扱いの難しい厄介な書です。それだけに後世の人々の想像力を掻き立てたところも大きく、『山海経』の記述からイメージの膨らみを持った妖怪はたくさんいます。

 ただ、日本人により馴染みがあるのは、以下の『荘子』のエピソードでしょう(高校の教科書に取り上げられていたはずです)。

荘子』内篇・応帝王 

 南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。儵與忽謀報渾沌之德,曰:「人皆有七竅,以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」日鑿一竅,七日而渾沌死。

 南海の帝を「儵」といい、北海の帝を「忽」といい、中央の帝を「渾沌」という。儵と忽とは、時おり渾沌の地で会い、渾沌はたいそう厚く彼らをもてなした。儵と忽とは、その渾沌の徳にお返しをしようと計画し、「人はみな七つの穴(目・鼻・口・耳)があり、それにより見て、聞いて、食べて、呼吸しているが、渾沌だけはこれがない。彼に穴をあけてみようではないか」と言った。そこで一日に一つずつ穴をあけると、七日目に渾沌は死んだ。

 早稲田大学の古典籍総合データベースに『山海経』の絵入りの本が入っていましたので(山海経. 第1-18 / 郭璞 伝 ; 蒋応鎬 絵図)、画像を掲げておきます(ただ、この絵はあくまで後世に想像して書かれたものであることにはご注意ください)。この画像を見ると、映画に出てきていた「モーリス」にそっくりであることが分かりますね。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru05/ru05_03472/ru05_03472_0002/ru05_03472_0002_p0025.jpg

 ちなみに、立命館大学中国文学専攻ホームページのイメージキャラクターも帝江だそうです(→てこちゃんの部屋。てこちゃんのぬいぐるみや壁紙の紹介もあってなかなか可愛いです)。

 余談ですが、仙界を覆い隠している竹林に入る直前に、役者のトレヴァーが「私はただの器だ」と言って、自分は帝江の言葉を伝えるだけの存在だということを言っていましたね。この「器」という言葉は、中国古典でよく言うところのあの「器」のイメージを重ねているのかもしれません*2。ま、元の英語を忘れたので、深堀りするのは止めておきましょう。

②九尾狐

 九尾狐は、異世界の村に入った時に最初に出迎えてくれる動物です。その名の通り、九つの尾がある狐のこと。同じく、『山海経』に登場しています。

山海経』南山経

 又東三百里,曰青丘之山,其陽多玉,其陰多青䨼。有獸焉,其狀如狐而九尾,其音如嬰兒,能食人,食者不蠱。有鳥焉,其狀如鳩,其音若呵,名曰灌灌,佩之不惑。英水出焉,南流注于即翼之澤。其中多赤鱬,其狀如魚而人面,其音如鴛鴦,食之不疥。

 また東方三百里には、「青丘」の山があり、その南側には玉が多く、その北側には青䨼(青色の宝石)が多い。獸がいて、その形は狐のようで九つの尾があり、その鳴き声は幼子のようで、人を食べることができ、食べたものは毒に当たらない。

 ここには「人を食う」などと書かれてマイナスのイメージを持つかもしれませんが、伝統的には瑞祥をもたらす獣とされており、例えば『白虎通』(後漢時代に作られた、政府による経書の統一理解を示す書)にはこうあります。

『白虎通』封禪

 天下太平符瑞所以來至者,以為王者承統理,調和陰陽,陰陽和,萬物序,休氣充塞,故符瑞並臻,皆應德而至。(中略)德至鳥獸則鳳皇翔,鸞鳥舞,麒麟臻,白虎到,狐九尾,白雉降,白鹿見,白鳥下。

 天下が太平となるときに瑞祥が来る理由は、王者が統治を受け継ぎ、陰陽を調和させると、陰陽が和し、万物が秩序立ち、瑞祥の気が充満するから、瑞祥が来るのであって、いずれも(王者の)徳に応じてやってくるのだ。(中略)徳が至ると、鳥獣では鳳皇が飛来し、鸞鳥が舞い、麒麟が来て、白虎が来る。狐が九尾を持ち、白い雉が降りてきて、白い鹿が現れ、白鳥が下りてくる。

 そして、なぜ九尾狐が瑞祥になるのかということを問答形式で説明したのが以下の部分です。

 狐九尾何?狐死首丘,不忘本也,明安不忘危也。必九尾者也?九妃得其所,子孫繁息也。於尾者何?明後當盛也。

 「狐九尾とは何か?」「狐は故郷の丘の方に頭を向けて死に、自分の本源を忘れないので、安泰な中でも危険を忘れないことを明らかにするのだ。」「九尾でなければならないのか?」「九人の妃が自分の居場所を得て、子孫が増えることを表している。」「尾が九つなのはなぜか?」「後世に盛んになっていくことを明示しているのだ。」

 本作は母の故郷を訪ね、自分のルーツに向き合うという話ですから、中国で「狐死首丘,不忘本也(狐は故郷の丘の方に頭を向けて死に、自分の本源を忘れない)」とされる狐にピッタリであると言えますね。

↓同じく、古典籍総合データベースより。右側の左上あたりにいます。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru05/ru05_03472/ru05_03472_0001/ru05_03472_0001_p0019.jpg

 有名どころでは、ポケモンの「キュウコン」やNARUTOの「九喇嘛」のモデルも九尾狐ですね。

zukan.pokemon.co.jp

 最近では、中国の妖怪を擬人化したアニメ「非人哉」の主人公の「九月」が記憶に新しいでしょうか。九月の尻尾が満員電車につかえて降りられない、という話が第一話でしたね。下の画像の左下のキャラクターです。

麒麟

 麒麟も、同じく主人公たちが仙界に訪れた際に、最初に出会う動物の一つ。キリンビール大河ドラマの「麒麟がくる」など、日本人にも馴染みがある神獣ですね。

 麒麟たちは主人公を見ても逃げることなく、意味深に目を向けます。麒麟は太平の世の訪れを示す神獣の代表格ですから(さきほどの『白虎通』にも麒麟が出てきています)、これはシャン・チー一行が太平をもたらす存在として是認されていることを象徴していますね。そののち、悪役である主人公の父が来た際には、麒麟は一目散に逃げだしています。ここは分かりやすい対比になっているわけです。

↓イメージ画像

commons.wikimedia.org

 古来、麒麟の来訪は瑞祥であり、太平の世がまもなくやってくることを示すものとされてきました。「麒麟がくる」というタイトルも、明智光秀の死ののち、秀吉を経て徳川による太平の世が始まることを暗示しているわけです。

 さて、麒麟が瑞祥として特に有名な理由は、これが『春秋』の末尾で描かれているからです。伝統的に孔子が編纂したとされて重視されてきた歴史書である『春秋』は、魯の哀公十四年(紀元前481年)の「獲麟」、つまり「麒麟を捕らえた話」で終わっているのです。

『春秋』哀公十四年

 十有四年春,西狩獲麟。(十四年の春、西で狩りをして麒麟を捕らえた。)

 この話については色々な解釈があるのですが、いまは漢代までには成立していたとされる『公羊伝』の解説を見ておきましょう。(『公羊伝』は問答形式で『春秋』を解説する書であることにご注意ください。)

『公羊伝』哀公十四年

 何以書?記異也。何異爾?非中國之獸也。然則孰狩之?薪采者也。薪采者則微者也,曷為以狩言之?大之也。曷為大之?為獲麟大之也。曷為獲麟大之?麟者仁獸也。有王者則至,無王者則不至。有以告者曰:「有麇而角者。」孔子曰:「孰為來哉!孰為來哉!」反袂拭面,涕沾袍。顏淵死,子曰:「噫!天喪予。」子路死,子曰:「噫!天祝予。」西狩獲麟,孔子曰:「吾道窮矣!」

 「どうして(獲麟のことを)記録したのか?」「異常なことを記録するためだ。」「どうして異常と言えるのか?」「中国(中原地域)の獣ではないからだ。」「それなら誰がこれを狩ったのか?」「木こりだ。」「木こりは身分の低いものなのに、どうして(本来は天子に対して用いる)「狩」という語で言うのか?」「これを重要なものとするためだ。」「なぜ重要なものとするのか?」「獲麟が重要なことだからだ。」「なぜ獲麟は重要なのか?」「麒麟とは、仁獣である。王者がいればやって来て、王者がいなければやって来ない。孔子に報告に来た者が「麇(鹿の一種)に似て、角の生えた動物でした」と言った。孔子は「なぜ来たんだ!なぜ来たんだ!」と言い、袖で涙を拭い、涙が服を濡らした。顏淵が死ぬと、孔子は「ああ、天が私を滅ぼした」と言った。子路が死ぬと、孔子は「ああ、天は私を断じた」と言った。西狩獲麟のときには、孔子は「私の道は窮まった」と言った。」

 この話は、『春秋』の解釈に関する学問である「春秋学」の根本的な問題の一つであり、長年経学者たちが議論してきた問題でもあります。孔子がこれだけこだわった獣であるがゆえ、中国の神獣として代表的な地位にいるわけです。

 さて、これについてはまた整理することにして、神獣の紹介に戻りましょう。

④獅子

 仙界の集落の両サイドで家を守っている動物です。これは説明不要でしょう。中国では、ライオンを象った石像(石獅子)を家の守護に置く風習があり、これが伝わって日本の狛犬、沖縄のシーサーなどが生まれたとも言われます。日本では「唐獅子」などとも呼ばれますね。

 最近、道教関係の研究を読んでいて石獅子に関する記述が出てきたと思うのですが、すっかり忘れてしまったので、また思い出した折に書いておきます。

⑤龍

 仙界の守護神として立ち現れるのが「龍」です。これも説明不要でしょう。本作では龍が水底から現れてきますが、「龍」と「水」にイメージの重なりを見るのも中国古来の観念です。

 龍については文献がありすぎて何を紹介すればいいのか難しいですが、試しに後漢の王充の『論衡』龍虚篇を見てみましょう。この篇は、龍に関する当時の言説を王充が批判するところです。

『論衡』龍虚

 盛夏之時,雷電擊折破樹木,發壞室屋,俗謂天取龍。謂龍藏於樹木之中,匿於屋室之間也,雷電擊折樹木,發壞屋室,則龍見於外,龍見,雷取以升天。世無愚智賢不肖,皆謂之然。如考實之,虛妄言也。

 盛夏の時、雷電が落ちて樹木を破壊し、家屋を破壊することを、俗に「天が龍を取る」という。これは龍が樹木の中に隠れていたり、家屋の間に隠れていたりして、雷電が樹木に落ちたり、家屋を破壊したりするのは、つまり龍が外に出現することであるから、龍が現れ、雷がそれを取って天に昇らせるのだ。世の中の愚昧な人々は、みなこの説が正しいと言う。しかし、よく考えてみると、これは虚妄の言である。

(中略)實者,雷龍同類,感氣相致,故《易》曰:「雲從龍,風從虎。」又言:「虎嘯谷風至,龍興景雲起。」龍與雲相招,虎與風相致,故董仲舒雩祭之法,設土龍以為感也。

 本当のところは、雷と龍が同類であり、両者が両者の気を感応させるものであり、だから『易』に「雲は龍に従い、風は虎に従う」というのだ。また、「虎が嘯く*3と谷に風が届き、龍が興ると空に雲が起こる」という。龍と雲とが呼び寄せ合い、虎と風とも呼び寄せ合うから、董仲舒が雨乞いの祭りの方法を定めた際には、土龍を作って感応を起こそうとした。

 雨乞いの祭りの際に、龍を呼び寄せる儀式が行われていたという話です。これは龍と水が「同類」と考えられていたからこそ出てくる考え方ですね(同類相感などと呼ばれます*4)。王充の『論衡』は当時の迷信を批判することの多い書ですが、その王充でさえ龍を用いた雨乞いの祭りは妥当なものとしているわけで、これが当時いかに妥当なものであると考えられていたかがよく分かります。

 ほか、同じく『論衡』奇怪篇から、龍の逸話を引いておきましょう。

 或曰:「夏之衰,二龍鬭於庭,吐漦於地。龍亡漦在,櫝而藏之。至周幽王發出龍漦,化為玄黿,入于後宮,與處女交,遂生褒姒。」

 あるものが言う。「夏(王朝の一つ)が衰えたとき、二匹の龍が庭で戦い、水を地面に吐いた。龍は消えたが水は残り、木箱の中に保存した。周の幽王のときになって龍の水があふれてきて、変化してトカゲ(龍の象徴)となり、後宮に入り、処女と交わり、そのまま褒姒が生まれた。」

 龍については、他にもたくさんの伝説が伝えられています。林巳奈夫の『龍の話―図像から解く謎』中公新書、1993)に詳しく整理されていますので、おススメです。

 私はまだ一度しか見ておらず、記憶の限りを辿って書いただけですので、色々とピント外れのことを書いているかもしれません。機会があれば、ぜひ専門家を携えて観に行きたいところです。

(棋客)

*1:ただ、日本語の字幕は中国語から直接翻訳されているのではなく、その英語字幕の再翻訳で作られているようで、たまに違和感のある箇所があります。https://twitter.com/gynaecocracy/status/1434833837368897539

*2:易経』繋辞上「形而上者謂之道、形而下者謂之器」など。

*3:「嘯」については、過去記事を書きました→「嘯」について―齋藤希史『漢文スタイル』より - 達而録

*4:武田時昌『術数学の思考―交差する科学と占術』臨川書店、2018)に詳しいです。とても読みやすい本です。