前回に続いて、山家悠平『生き延びるための女性史』の内容を紹介していく。今回は第四章と第五章の感想を書く。
第四章「遊郭のなかの「新しい女」」
青鞜社の女性たちは、「新しい女」という揶揄を肯定的な意味で自ら積極的に名乗るようになったが、それと同時期、遊郭の中で本を書き、やはり「新しい女」と揶揄された人がいる。それが『遊女物語』の著者の和田芳子である。和田芳子は、26歳の時、自身の遊女としての体験を記した本を出版し、三十以上の新聞で取り上げられる。本を読んだ客が来ることも増え、多忙を極めたという。しかし、過去の女性史研究の中で、この書は取り上げられたことがない。
たとえば、伊藤野枝と青山菊栄が、『青鞜』で公娼制度・廃娼運動における娼婦蔑視についての論争をしたことは、これまでも何度も取り上げられてきた。しかし、それより早くから存在した、当事者による書籍が注目されないという学界の現状がある。これは、当事者不在で、売春を論じる外部の人に焦点が当てられているということであり、現代のセックスワークをめぐる議論と相似形にある。
和田芳子は、1907年に経済的困窮から遊郭に入った(そのシーンも『遊郭物語』に描かれている)。当時の遊郭としては珍しく高等女学校を卒業しており、相当な読書家で、遊郭の部屋にも多数の本が備えられていた。そして『遊郭物語』を執筆した。『遊郭物語』の構成が以下である。
- 冒頭:著者の写真、手書き原稿の写真
- 写真に写っている娼婦による経験の告白として読めという指示。
- 自序(出版の経緯)
- 「遊女となる記」(困窮から遊郭入りまで)
- 「遊女の実験」(嫌いな客やうれしい出来事の回想)
- 「入院中の所見」(遊郭病院の観察記録)
- 「遊女日記」(遊郭の生活の記録)
- 客からの手紙を集めた「艶文集」
本書の文章には、通奏低音のように、いらだちや静かな怒りが表明されている。和田にとって執筆とは、自らの置かれた状況を把握し、過酷な環境を生き延びるための方法であったとも言える。和田は、出版することの心境を以下のように述べている。
世には賤業婦だ、売笑婦だと、一口に言い罵らるる身の恥を、書いて自ら公にしたようなものの、これは実に、私が苦界に於ける四年間、血に泣いた涙の記念である。事実として、ありのままに、果敢(ほか)なき身の運命やら、苦しく悲しき苦界の苦心やらを、筆に写した記念である。手に取って、一頁一頁とひらき見れば、今更に万感潮のように、胸に湧いてくるのである。私は、古い親しい友人にでも逢ったような心地で、臥しながら、自分の筆の跡を、第一頁から読んでいると、昨夜の労(つか)れにか、いつしか眠りに落ちてしまった。(p.102)
著者は、「古い親しい友人」という言葉に、自らの経験を自らの視点で語り直すことで、世間の差別的な視線を認識しながらも、自分を愛しく感じ、肯定的なものとして受け入れる感覚を読み取っている。また、「賤業婦」「売笑婦」といった非人間化する呼称に対して、本を読みながら眠り込んでしまう、一人のありふれた人間として自らを提示しているとも指摘する。
本書が書かれたのは、大逆事件直後、社会運動の冬の時代で、何かを主張するというより、日常の記録として書かれた。しかし、自らの生活を自分の言葉で書くこと自体が、「意味づけられる」「語られる」対象であった遊郭の中の女性にとっては、まさしく抵抗としての意味を持っている。
著者はここに、のちの森光子・松村喬子の作品に見られる批判精神の萌芽を見出だしてもいる。つまり、客に一方的に見られ、意味づけられる「遊女」像を否定し、嫌いな客を批評し、遊郭の中から将来の生活に思いを馳せる。これは、まなざされる側から、まなざす側への移行である。女性を良妻賢母と娼婦に分断する、男性中心主義的なジェンダー規範への揺さぶりにもなっている。
本章を読んですぐに気が付くのは、第二章・第三章との重なり合いである。それは「自らの生活を自分の言葉で書く」ことが抵抗になる人々の重なり合いである。性的欲望の対象として「まなざされる」クィア、職場のハードディスクとして「意味づけられる」非正規雇用者。そして遊郭の女性たち。こうした〈声〉の重なり合いが本書の素晴らしいところであると思う。
第五章「ものを読む娼妓たち」
本章では、1920年頃、遊郭の中で何が読まれていたのかについて考察する。テーマとしては、私は勝手に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』や『テヘランでロリータを読む』などを想起したが、どちらも未読なので特に比較とかはできない。
1920年代、大衆消費文化の始まりによって、新聞や格安出版が大流行した。マーケットの拡大に向けて大量宣伝がなされ、紙面内容も平易化するなど、出版文化に大きな変化が生まれた。遊郭でこれらの新聞・雑誌がどれほど読まれたのか考えるためには、まず以下の二つの問いを明らかにしなければならない。
一つ目の問いについて、推測だが、東京近郊なら四割ほどは読み書きができたらしい。二つ目の問いについては、娼妓取締規則(1900年)で遊女は地域外への住居が禁じられ、外出時には見張りがつくのが通例で、気軽に買い物はできなかった。基本は楼主の裁量次第で、自由は制限されていた。ただ、日常的に客と密室で接する仕事であり、楼主が完全に管理することは不可能でもあり、書籍が読まれることもあった。
遊郭では、大衆雑誌・映画雑誌・講談本(子供向けの娯楽書)などが読まれていた。また、客から届く大量の手紙や家族からの手紙もよく読まれていた。ほか、遊郭の中にだけ届けることを目的とした印刷物もある。廃娼運動や自由廃業案内、社会主義者やアナキストによる廃娼ビラなどがある。特に、底辺女性労働者の解放という観点から、香具師による廃娼運動が盛り上がったことが知られる。また、「救世軍」という団体が発行する雑誌『廓清』の1914年10月号には、娼婦に切り取って渡してほしいページが備え付けられている。
香具師による廃娼運動は、同じ労働者という視点から決起を促す方向性があるのに対し、救世軍は、救済者の立場から遊郭の女性を教え諭すような内容である点に相違がある。この方向性の相違は、現代のセックスワークをめぐる議論とも重なってくるところがある。つまり、職業差別を内面化してしまっている運動と、「セックスワーク イズ ワーク」を掲げる運動の路線の違いである。松村作品の中に、救世軍よりも片山哲(労働運動系)を頼りたいという娼婦の発言が描かれているという話が、進むべき道を明らかにしている。
さて、松村・森の作品から明確なことは、読書によって、本に希望を読み込んでいるということである。松村自身、森作品を読んで、遊郭から出ることを具体的にイメージしようとした上で、片山の廃娼論によって論理的な裏付けを得たのではないか、と著者は指摘する。つまり、文章を読み、自分の状況を理解するというリテラシーが、状況を切り拓く力になったと言える。
では、教養誌を読むことができない娼婦はどうか。この場合も、必ずしも情報から疎外されていたわけではないことを、著者は新聞記事にある匿名の娼婦の証言から明らかにする。ここには、新聞記事の中の遊郭関連の報道を、自らの状況に重ね合わせて共感的に読んでいく姿勢がある。
話を前段までで終わらせず、「教養誌を読めない娼婦」にまで対象を広げようとしているところに、できる限りインターセクショナルな声を拾い上げたいという筆者の意思が見える。
さて、以上の一連の流れを、著者は以下のようにまとめている。
文字を読むことはただの受動的な営みではなく、社会の中に自らの位置づけを探る能動的な行為であり、さまざまな矛盾を認識した娼妓たちはその状況を変えるためにさらに直接的なはたらきかけをはじめるようになった。(p.146)
この読解も、当時の遊女にとっての「読書」を痛切にとらえたものであると同時に、そうした遊女の記録を読み続けてきた著者自身の能動的な試みが重ねられていると思う。
最後に、蛇足めいた感想だが、この感想を書くために詳しく内容を読んでいて気がついたのは、著者の言葉遣いの繊細さである(と言いつつ、私の写し誤りで表現が変わってしまっているところが恐らくあるのが申し訳ない)。たとえば、漢字で書くかひらがなで書くか、似た単語が多数ある中でどの言葉を使うかといった、一つ一つの細かな文言に意思が込められているように思う。
(棋客)