前回に続いて、小松原織香『性暴力と修復的司法:対話の先にあるもの』を読み進めていく。今回は、第三章「「対話する主体」と性暴力」を中心に紹介していく(p.97-)。論旨としては、性暴力被害者は「語る主体」になることで、回復する主体・告発する主体・対話する主体という三つの側面が立ち現れてくるというものである。
回復する主体
歴史的・文化的に、性暴力被害者は沈黙を余儀なくされてきた。ということは、語る主体となる経験自体が、性暴力の場合には特別な意味を持つ。これは他の事件の被害者とは事情が異なる点である。
性暴力事件においては、刑事司法制度が機能しないことが多い。被害届が出されることも少なく、犯人逮捕に至ることは稀である。性暴力被害は社会の中でほとんど知られていない現状があるが、与える影響は非常に大きい。身体的な負傷を負うことがあるのは言うまでもないが、心理的葛藤・トラウマなど外からは見えにくいが重大な被害を負うこともある。
性暴力被害者が沈黙させられてきた背景には、加害者の脅し・被害者の自衛・社会の圧力の三つの要因がある。これらによって、被害者が言えない状況が社会的に作り出されてきた。ということは、性暴力被害者が沈黙を破ること(自らの経験を語る主体となること)自体が、性暴力を認識できない仕組みになってしまっている社会を変える第一歩であり、一つの社会運動としてとらえることができる。
こうした動きが活発化したのが、1970年代、第二波フェミニズムの頃である。この運動は、男女差別の構造を問題とし、マイノリティへの暴力という形で性暴力を告発した。つまり、差別問題への取り組みと被害者支援が接続していた。このフェミニズムの草の根の運動の中で、性暴力被害者は自分たちの経験を語り合ったが、これは抑圧されて語る機会を奪われた女性たちが声を上げるための活動として大きな意味があった。精神医学においては、性暴力被害者の沈黙が個人の病理的問題に還元されることもあるが、ここでは、声を奪われたマイノリティという社会的問題としてとらえられている。
ハーマンは、沈黙させられたマイノリティが声を上げ、語る主体となる経験を得ることと、性暴力被害者の回復過程を重ねて理解した。ハーマンは、性暴力被害者が回復する過程を以下のようにとらえる。
- 安全の確立
性暴力被害者は、被害にショックを受けて動揺している。まずは、自分の力とコントロールの感覚を取り戻すことが重要である。そのためには、性暴力被害者が「ここは安全だ」と心から思えるような心理状態に至ることが回復手段の第一段階になる。物理的な暴力の傷、睡眠や食事などのサポート、また被害者の住環境や金銭問題など医療以外の生活面の配慮も必要である。
この時、医師・看護師・心理士・ソーシャルワーカーなどの専門職が支援に当たるが、あくまで、治療についての決定権を保持するのは被害者当人である。被害者は、セラピストとの関係の中で主体性を確立してゆく。 - 想起と服喪追悼
ここでは、言葉を失ってしまうような経験としての性暴力を、物語の中の出来事として位置づけ、語ることを可能にしていく。絵や図を使うこともあり、言語化だけが目的ではない。被害者の中でひとつのまとまりをもった物語になることが重要で、これにより過去を乗り越え、トラウマに振り回されずに生きていけるようになる。 - 再統合
セラピストとの関係を脱し、周囲の環境と対峙していくフェーズ。暴力によって無力化され、搾取されることが多かった被害者が、闘う方法を身につけて、危険に対する身の処し方を学ぶ。ここに至ると、新しいパワフルなアイデンティティを構築して人生を先に進むようになる。
そして、個人の問題を越えて、社会問題として性暴力に取り組むようになる。語る主体となる経験を身につけた被害者は、コミュニティに能動的に働きかける主体となる。
ただ、ハーマンによれば、①から③への回復は直線的ではなく螺旋の過程であり、人生の危機によって、過去のトラウマが引きずり出され、無力感や孤立感にとらわれ、また①に戻ることもある。
著者は、このハーマンの理論の回復するプロセスの中で、語る主体が立ち上がってくることを「回復する主体」と位置付ける。
告発する主体
次に、マッキノンの理論を用いながら、「告発する主体」の説明に移る(p.110-)。
先述したように、現在、法廷は性暴力被害者が被害を語る主体として確立できる場になっていない。その背景には司法制度や裁判官による性差別がある。性暴力事件におけるよくある基準が「抵抗の有無」による判断である。両者の間に権力差がある場合、「抵抗しなかった」ことと「抵抗できなかった」ことは同義であるが、判決に際してこのことが理解されないことが多い。
性暴力における被害者の傷つきとしては、自己決定が権力関係によって阻害される・主体性が奪われるということがある。そこで、公正で配慮のある場で自分の被害について話せるようにすること、つまり語る主体となる経験を得られるように支援することが重要になる。そして、そのように司法を変えていかなければならない、という社会運動に着手したのがラディカル・フェミニストであった。
その背景には、司法を変えることで、刑事司法によって性暴力が告発できるようになれば、加害者は厳しく罰せられ、性暴力は許されないというメッセージが社会に出されるという目標があった。
この、法廷で闘う性暴力被害者が「告発する主体」である。「回復する主体」が多様で揺れ動く性暴力被害者のモデルであるのに対して、「告発する主体」は、自らを傷つけた加害者に厳罰を望むだけではなく、性暴力を許容する社会を告発し、性差別の撤廃に向けた運動を進めていく。そもそも沈黙せざるを得ないような社会構造を告発し、コミュニティ内の性差別を打破する役割を担う。つまり、法廷闘争を通してコミュニティを変えていくのが性暴力被害者の「告発する主体」である。*1
対話する主体
最後に、被害者と加害者の二者関係から立ち現れてくるのが「対話する主体」である(p.120-)。
従来のフェミニズムは、被害者と加害者の関係を絶つように促してきた。たとえば、ハーマンは、被害者が加害者と対話することを望むのは、回復への抵抗であるとする。赦し・復讐は、加害者への執着の現れで、トラウマに囚われたものであり、回復が進めば、二者関係に興味を失うとした。RJを性暴力事件に適用することも避けられる傾向にある。
しかし、これまで全く検討されてこなかったわけでもない。福祉を基盤にして非暴力的な解決をする「ペルセポネモデル」として、再生産労働・ケア労働といったケア倫理を基盤に紛争解決を行うモデルが提示されてきた。これは対話による紛争解決のアプローチであり、公衆の面前で、三人称ではなく、二人称の視点から問いかけ、共感を基盤とする対話から主体が立ち上がってくる。これが「対話する主体」である。
著者は、回復・告発・対話の三つの主体を三項関係としてとらえる(p.127-)。性暴力被害者の主体は三つあり、同時に存在している。たとえば、告発する主体として社会に問いかける時に、回復する主体としてセラピストともにトラウマに向かい合うこともある。
ということは、重要なのは、性暴力被害者の対話のニーズを理解することである。「この人に必要なのはセラピーか、対話か」ではなく、「今、必要なのはセラピーか、対話か」という問題に読み替える。つまり、ある時点で対話を望むことは、回復や告発を求めないことではない。対話の準備を進めていた被害者が、途中で回復に集中するようになり、対話を中断することもある。裁判で告発した被害者が、後から加害者との対話を求めるかもしれないし、対話を終えた被害者が、癒えていない傷に気が付いてセラピーでの回復を求めることもある。
性暴力被害者の主体を、この三項関係の強弱によって現れてくるとモデル化すると、理解しやすいことが多い。
なお、よくよく気を付けなければならないのは、この「対話」の出発点が、常に性暴力被害者の呼びかけにあることである。逆に、加害者側から性暴力被害者が「対話する主体」を要請されるのは、暴力になる。加害者から対話を求めるのは、被害者のトラウマや恐怖を刺激し、精神的な混乱を引き起こしかねない。対話には被害者・加害者双方の意思が必要だが、被害者の安全を守るために、その非対称性には配慮が必要である。
被害者は答えのない問いを抱えており、そこから対話を求めるのであって、加害者は、人間として、自分の存在を賭けて、その問いに答える責任があるといえる。
さて、この本を読んで思い出したのは、先日紹介した山家さんの『生き延びるための女性史』である。ここにも、当事者たちの自らの経験の語りが、共感を生みさざ波を立て、社会への抵抗運動となっていく様相が描かれていた。抑圧される存在にとっては、語ること自体が抵抗になり、それ自体が社会運動になっていく。
では、その中で「加害者との対話を希求する主体」の存在が持つ可能性は何だろうか、ということについて考えていきたいと思った。
(棋客)
*1:なお、先日紹介したブログにも性暴力事件の事例があって参考になる。→暴行・脅迫がなければ性的同意があったものとみなされるという俗説が誤りであることを示す一例 - 弁護士 師子角允彬のブログ。