達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

自分の研究の今後の方向性を考える(4):川合康三

 数回前の記事で、近年の中国学研究における異性愛規範・性愛規範の批判や、ジェンダー史研究の批判を試みたいという話を書いた。今回は、自分が具体的にどういうところに違和感を持っているのか、実際の研究を取り上げてみたい。

 今回は、川合康三「中国文学における「友情」のかたち」(科学研究費補助金研究成果報告書、2004)を題材とする。以下のリンクでオンライン公開されている。→Kyoto University Research Information Repository: 中国文学における「友情」のかたち

 川合先生は漢詩と友情・恋愛というテーマについての研究が多く、『白楽天 官と隠のはざまで』(岩波新書 2010)や『中国の詩学』(研文出版、2022)などにもさまざまな論考が収められている。いずれも優れた論考であり、本来であれば、こうした研究も見て一緒に論じていくべきではある。ただ、今回のところは、自分の小さな違和感を言葉にすることが目的なので、片手間に上の研究の一部だけを取り上げることになってしまうが、ご容赦いただきたい。(以下、敬称略)

 冒頭、「友情」について説明される部分が以下である。

配偶者と友人は私的生活に大きな部分を占めるだけではなく、人間の愛情の二つの面でもある。愛情には家族への愛情、異性への愛情、同性への愛情、さらには小動物や植物、物に対する愛情、あるいはより公的な場に移って君臣間の上下関係を伴った愛情など、さまざまなものがある。そのなかで友情は、身分の上下関係を伴わず、また肉体的欲求を伴わない人間どうしの間に共有される愛情である点で、はなはだ特色がある。自分個人の欲求や利害の計算に最も遠い愛情といえようか。友情にまつわる美しい物語が語られてきたのも、それが人間の愛情として純粋であるかに思われたからであろう。中国にももちろん古くから友情にまつわる話は豊富にのこっている。というより、配偶者以外の異性に対する愛情が儒家思想の支配のために抑制されてきた結果、友情は他の文化圏よりもいっそう豊富にのこっているというべきだろう。(p.2)

 ここの「そのなかで友情は、身分の上下関係を伴わず、また肉体的欲求を伴わない人間どうしの間に共有される愛情である点で、はなはだ特色がある」という書き方に、私は違和感を覚える。そもそも肉体的欲求の有無によって友情と恋愛を峻別するのは性愛主義的で批判したいところであり、その上で、そうした著者の中の「友情」像がここで当たり前の前提として規定されているところに最も違和感を覚える。

 たとえば、研究内容が同じであっても(つまりこうした「友情」イメージを問い直すのが主題ではないにしても)、ここが以下のような表現に代わっていれば、私はあまり違和感を覚えないと思う。

  • そうしたさまざまな愛情のなかで、「身分の上下関係を伴わず、また肉体的欲求を伴わない人間どうしの間に共有される愛情」を、筆者は「友情」としてとらえる。こうとらえるとき、友情は~~

 もちろん肉体的欲求を伴う友情も存在する以上、その捉え方は矮小ではないかという批判はされ得るが、「この論考のなかで筆者はこの概念をそう定める」という表明をする形になれば、多少の違和感は解消される。

 ただ、より深堀りして批判するなら、「そもそもそういう「友情」イメージが古代中国においても成立するのか」というところを問い直しの対象にし、規範の解体を目論む構成にする方が、より根本的な研究になるのではないかとは言えると思う。その場合は、「~~を筆者は「友情」としてとらえる」みたいな定義を先にしてしまうのではなく、中国史上の「友情」の考察を通して、最後に「友情」とは何かということを示すという形になるだろう。

 

 次に、『論語』の「学而時習之」について考察する部分が以下。

論語』の冒頭で孔子が語っているのは、友との交わりの中でもつことのできる「楽」しさであって、トクでもソンでもない。何か特別なことをするわけでもない。遠くにいる友達がやってくる、それだけのことだ。交遊のなかでもこうした一面をとりあげることに『論語』のセンスのよさがある。もしこれが恋人だったとしたら、こうは言えないだろう。ずっと一緒にいたいというのが異性間の愛情だろう。友情の場合は離れていてもいい。互いに相手の存在が頭にあって、互いに友達だと認め合っている。そして折りあらば訪ね合う。それだけで十分に満たされる。(p.3)

 「ずっと一緒にいたいというのが異性間の愛情だろう。友情の場合は離れていてもいい」という言葉にも、恋愛と友情への無条件の前提があると思うし、ここで「異性間の愛情」とだけ言ってしまうのは、異性愛中心主義であるとして批判されよう。ほか、p.10でも、元稹・白居易の友情について、二人の別れを描いた一段に「まるでこの空虚感は異性と離別したときのようだ」とも述べられていて、やはり異性愛中心主義的になっている。*1

 以上は、言葉の表現を取り出した表面的な批判に終始しているが、ここから深掘りして、たとえば「恋愛・友情観の無意識の前提が、川合の実際の詩の読解にどのように影響を与えているか」「どうすればその前提を崩して再構築できるか」というところまで考えられれば、それなりに意義のある批判にはなってくると思う。

 もちろん、川合の詳しく分析してみると、「川合の詩の読解はむしろこうした無意識の前提を突き崩すような可能性を秘めるものであった」という結論になる可能性だってあり得る。本当はここまできちんと分析した上でこの文章を書くべきではあるのだが、それはまた機会があればということにさせていただきたい。

(棋客)

*1:「古い論文だし仕方がない」みたいな擁護もありそうだが、2004年となると同性愛者の権利を求める運動はとうの昔に始まっているし、研究も色々出ているはずである。