- パンセクシュアルを名乗ること:前提
- パンセクシュアルを名乗ること:過去
- パンセクシュアルを名乗ること:未来
- パンセクシュアルを名乗ること:文献・リンク集(今回)
さて、昨日まで連続で更新してきた記事も、最初はいつもの記事のように、他人の文章を色々と引用しながら書いていた。ただ、この内容なら、全部(一応の)自分の言葉で書いた方がいいような気がして、そのままつらつらと書き連ねることにした。
そうはいっても、言葉にするに当たって、色々と読んだものはあるわけで、それを示しておかないのは不誠実だと思う。だから、なんとなく心に残っている文章をざっと挙げておく。また、昨日までの記事に直接関わらなくても、自分のことを考えるきっかけになったものを広くピックアップした。文献だけではなく、映像作品なども挙げられているのはそういう事情による。
また、色々な文章の力を借りたとはいえ、結局ここまで書き進めることができたのは、私が直接信頼して話をできるたくさんの友人や「同志」たちがいるからに他ならないので、深く感謝したい。特にmiffy、ありがとう。
まず、言語化の助けになったものとして、同じくパンセクシュアルを名乗る高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』がある。高島さんは、パンセクシュアルを名乗る理由を、「私はノンバイナリ―・女性ジェンダー・男性ジェンダーの人物にロマンティックなものを抱いたことがあることから」と言いながらも、そう説明することに「具体的な経験によって自己を証明せねばならないのではないかという強迫観念」が働いているのではないか、と自分に指摘する。また、明確に〈交際〉したことがあるのは男性だけであることから、世間一般には異性愛者にしか見えないのではないかとも感じるという。私が特に共鳴したのが以下の一段。
私の非男性に対する欲望はあくまでも友愛で、私はただちょっとマイノリティの顔をしたいだけのヘテロセクシュアルなのではないか、という自分自身への疑いがある。だがそう思ってしまったとき、私が人生の半分以上抱え続けている自分の葛藤が、ないことにされてしまうのを恐ろしいと感じる。目に見えない、ちょっと度を越しただけの友情として解釈されてしまう可能性のある、しかし確実に歴史のある心情について、「よくあること」「気の迷い」として残飯のように処理されるのを、私は強烈に嫌だと思っている。(p.34)
「確実に歴史のある心情」は、自分で語るしかないし、自分で言葉にしなければこのシステムの中ではその自分はいないことになってしまう、とこの一節を読んで改めて感じた。もちろん、高島さんと私の感覚がぴったり重なるわけではないけど、力をもらった言葉として挙げておく。
次に、同じく言語化を助けるとともに、バイセクシュアルの運動の歴史について教えてくれた記事を挙げておく。18年前のインターネット上の対話の記録である。
- バイセクシュアルの不可視化を可視化する、ということ - FemTumYum
- 日本における「バイセクシュアル」の可視性の歴史 – ひびのの主張/テキスト作品
- 2種類の「同性愛者のアイデンティティーの政治」 – ひびのの主張/テキスト作品
ここで使われている「欲望を喚起する第一の要素が性別以外であるということ」という表現は自分の感覚と近い。また、過去にバイセクシュアルが蒙ってきた差別として、「同性とセックスしたから同性愛者だと決めつけられる」「異性愛者か同性愛者という二者択一が強いられる」など、強制異性愛社会と同性愛者運動の双方からバイセクシュアルという自己認識が否定されることがあることも知った。そういう闘いがあって、今自分がパンセクシュアルと名乗っているということは理解しておきたい。
そして以下の記事からは、人に対する性愛だけを想定すること(対人性愛中心主義)が、トランスジェンダー差別・アセクシュアル差別を同じ構造を持つことを教わった。
末尾にある「これまでの性的マイノリティに関する議論は、ときに性愛を普遍的なものと考えがちであった。このように、性的マイノリティをめぐる議論のなかでも、暗に特定のセクシュアリティが前提とされうるという点に注意が必要である」という言葉は、本当にその通りだと思う。「誰を好きになってもいいじゃん」とか「将来誰を好きになるかなんて分からないよね」という言葉はよく使われているけど、この言葉も性愛主義が潜んでいる。せめて「誰を好きになっても/ならなくてもいい」「将来誰を好きになるかなんて分からないし、誰も好きにならないかもしれない」と表現したくて、昨日までの記事ではこんな感じで書いている。ただ、これはこれで、人に対する性愛しか想定していないという感じもして、あまり良くないところがあると思う。だから、「誰を好きになっても/ならなくてもいい」に加えて、「人じゃないものを好きになるかもしれない」と言うべきだと思う。
これに関連して、差別とは何か、属性と行為を切り分けるとはどういうことか、また反差別を表明するとはどういうことかについて、最近読んだ迫力のある記事が以下の三つだ。
- 反差別とは?ということをあらためて考えてみました - by 本屋lighthouse(ライトハウス)〈幕張支店〉
- ペドフィリア、チャイルド・マレスターと性的指向 – sykality
- ひょうご人権総合講座 - 一般社団法人ひょうご部落解放・人権研究所
一つ目は、セーファースペースとしての本屋のあり方を模索し続けるlighthouseの店長の文章。二つ目は、欲望と性暴力を区別することの意味がよく分かる記事。三つ目は、トランスジェンダー差別に関する声明で、部落解放・人権運動に携わり続けてきた研究所の矜持が感じられる文章。力強く、そして分かりやすく自分の主張を述べ、社会に訴えかける営みを、自分もやっていこうという気にさせてくれるものだ。どれもぜひ読んでほしいので挙げておく。
また、最初の記事で、名乗りという行為と連帯について書いたけれど、その時に思い出した記事を挙げておく。
本当に何も知らないのにこんなこと書くのは無責任だけど、このように受け止めるファンがいたからこそ、当人がカミングアウトできたのではないか、と逆説的に考えてみたくなる(それは私が私の状況と重ねているからでもある)。同じブログにある「「おっさんずラブ」卒業論文 ──「リターンズ」における同性カップルの描き方 」も、向き合うのもしんどい中できっちり批判されていて、素晴らしい記事だと思う。
あと、一連の記事の中で、同人小説の携帯サイトについて言及した。あの頃のあの場所についてよく描けていると思う漫画が真田つづるさんの「同人女の感情」シリーズだ。このシリーズはいつも楽しく読んでいたのだけど、ある日「同人男の感情」という作品が出て、購入して読んだ。
作中の「同人男」と同じ体験をしたというわけでは全然ないのだけれど、間違いなく、あの頃の自分の感情の一欠片を拾い上げてくれる作品だった。真田さんも、あの頃のあの場所への愛情があって、あの頃の私たちの物語が必要で、だから自分で書いているんだろうな、と勝手に思ったりする。真田さんありがとう、全部買うのでもっと書いてください。
最後に、前回までの記事と直接関わるわけではないが、最近の映画やドラマに関連する記事をついでに挙げておく。特に批評記事は、作品を消化しながら言語化していく過程がよく見えるので、自分で文章を書く時の助けになると感じた。
- 映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話:朝日新聞デジタル
- 批評家の坪井さんと児玉さんがもはや監督以上に作品を理解しており、最後まで徹底的に批判できるからこそ、素晴らしい対話になっている。
- 【映画感想】 白田悠太監督『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』(98分/2023/日本) - ミッフィーのおうち
- 書き手の意図と執着の対象を鋭くとらえつつ、作品の内側だけではなくて、映画業界にも考察が向けられていて、感服した。
- LGBTQ当事者を「便利使い」しないために。杉咲花さんと若林佑真さんらが映画『52ヘルツのクジラたち』で挑んだ課題と希望 | ハフポスト LIFE
- 杉咲花×ミヤタ廉×浅田智穂による『52ヘルツのクジラたち』鼎談。トランスジェンダーの表象と、日本映画界の課題 | CINRA
ほか、映画としてはやっぱり「ノー・オーディナリー・マン」が素晴らしかったなあ(自分の感想:「映画「ノー・オーディナリー・マン」(No Ordinary Man)の感想(1)」)。
こうして眺めてみると、直接の友人に加えて、さまざまな人が書いた誠実な文章や救いになるフィクションを受け取れる自分の環境のありがたさが身に沁みる。せめて自分も誰かの救いになる文章を書きたいものだ。
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(棋客)
*1:一方で、特に当事者にとってはかなりきつい描写のある作品であることは確かなので、観に行く時には自分の精神状況を考えてから行くことをお勧めします。