達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

川原寿市『儀礼釈攷』自序を読む

儀礼釈攷』とは

 十三経の中でも屈指の難読とされる『儀礼』については、現在では日本語でも数種の解説書が出ています。その端緒に位置づけられるのが川原寿市『儀礼釈攷』です。

 この本は完成当時は大々的には版行されず、ガリ版で数十部刷るのみであったようです。その後朋友書店主人の協力を得て、全15冊が出版され、今は多くの図書館に収められています。本書に序文を寄せている小島祐馬氏は、「少なくとも儀礼に関する限り、部分的にはともかく、全体に亘ってかくのごとく正当な解釈をしたものは、日本では今日まで他に類例を見ないところ」と述べ、激賞しています。

 

儀礼釈攷』序文とその時代背景

 私は初学者に過ぎず、その内容について評論することはできません。しかし、冒頭に附されている川原氏自身の序文に深く心を動かされ、そこだけでもと思い書き残しておきます。

 以下、全て川原寿市『儀礼釈攷』第一冊(朋友書店、1973)の自序から引用しています。長文に渡りますので、三か所だけ抜粋します。是非全文をお読みください。

儀礼釈攷の筆を起したのは、昭和十六年九月立命館大学予科教授を辞してからのことである。立命館を辞めたからといって、どこに行こうという目あてがあったわけでもなく、辞表を出したその日から明日の生活を考えねばならなかったが、節を枉げては一日としてその耺に晏如たりえない潔癖さと愚かさは、ひたむきに浪々の身となった。不安をつゝみきれない妻子を顧みて「生きる道は一つではない。」と腕をさすってみせた。それは必ずしも虚勢のことからとのみは今でも思っていない。

 本文では以下、本書の執筆の意図するところが書かれています。川原氏は結局研究職に就くことはなく、独力で研究と執筆を続けたようです。

思えば立命館を辞めてから今日まで足かけ七年、支那事変から第二次世界大戦へ、世界をあげて動乱のさ中におちていった時代である。第二次近衛内閣の総辞耺、そして運命の東条内閣の成立、真珠湾攻撃、米英に対する宣戦布告、マレー沖海戦、あれよあれよとみるまに、驚天動地の舞台がめぐり、勇ましい軍艦マーチを幾たびか聞いたことであった!しかし剣は折れた。矢はつきた。満身創痍、一敗血にまみれ、ミズリー艦上に無条件降伏を誓うに至った今日まで、どの一刻もどの一瞬も、書斎にじっととじこもっていられるような、生やさしい時代ではなかった。昿古の戦時体制下におしまくられ、生活は日ごとに嶮しさを加えていた。この時の苦しい生活の支えはひとり妻の肩にのしかかっていた。妻はお守の札張りから仕立てもの、時に家政婦、時に買出し、日に夜をついで、よくたえよく働いた。

 1941年に執筆を始め、1948年に完成。ガリ版で第一冊として「生誕礼」を刷り上げたのが1955年。最初は奥様が、その後は川原氏自らがガリ版を切っていたようです。以下1~2年おきに少しずつ刷り、紆余曲折を経て朋友書店の印行となります。

 年号を見ただけでも、執筆を続けることに如何に困難があったか、よく分かるものです。以下、川原氏が生活のため少し教師の仕事をしたことや、妻の病気、恩師小島先生との出会い、戦時下の統制と訓練の様子が、生々しいほどに描かれています。

以下は、その後再び奥様が病に倒れた時の一段。

妻はその後また大病をわずらった。最初は風邪でもあろうぐらいに思っていたが、病勢は悪化するばかり、かゝりつけの医者はチブスの疑いがあるという。そのうちに容態が急変してきたので、名医とうわさされていた安井先生の往診を請うたところ、ワイル氏病と断定―もう顔には死相が浮かんでいるようにみえた。「自分の許へ嫁いで以来、労苦のかぎりを尽くし、いつ楽しむ時があっただろう。」今でもボロボロの寝巻きにくるまって、昏々とねむりつづけている妻、枯木のように、しなび果てた顔をのぞきこんでいると、とゞめなく涙がこみあげてきた。安井先生は血精注射をうちこんだ、葡萄糖も注射してくれた。幾本かの強心剤も注射してくれた。袖の下をたんまり使わなければ、一本の注射もうってもらえないのが常識とされていた時に、これはまた何としたことだろう!わたくしの瞳に、先生が神の姿として焼きつけられた。

 生々しく切々とした文章に心を打たれます。

 

まとめ

 翻って、今の私の環境が比較にならないほど幸せであることに、改めて気付かされます。何だかんだ飯を食うことに困ったことはなく、本もある程度は自由に読め、印刷だって簡単です。

 環境は良い方が良いに決まっています。「苦しい中で頑張ってこそ…」という考え方は、個人的には苦手です。しかし、その環境を最大限に活かしていると言えるのかどうか。反省せねばならないことは沢山あります。

 

 さて、少し調べてみたところ、川原氏は白川静氏に「畏友」と紹介されているようです。立命館時代に交流があったのでしょうか。

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