達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

研究者がWikipediaを執筆するとき

 本ブログでは、これまでときおりWikipediaの執筆について触れてきました

 特にWikipedia執筆者の方々と交流する会に参加させていただき、自分なりに方針を立てられたのが大きく、これ以後時間を見つけて少しずつWikipediaを執筆しています。

 すでに立てられている記事の修正が主ですが、新たな記事もいくつか立ててみました。一つが以下の記事です。

ja.wikipedia.org

 当初は『孝経述議』というややマニアックな書籍一冊ならすぐに書き上げられるだろうから、練習によいだろうという軽い気持ちで書き始めたのですが、案外長めの記事になりました。

 もう一つ、少しずつ加筆をしているのが以下のページです。こちらはこの先が難しく、また大幅に組み替える必要があるかもしれません。

ja.wikipedia.org

 

 では、これらの記事の執筆や、Wikipedia執筆者の方々との交流を通して気が付いたことを、備忘録としてメモしておきます。大まかな方針については以前の記事で思うところを書いたので、今回はもう少し具体的に、研究者が記事を執筆するときに注意すべき点を書いていきます。

  1. 研究者の視点とそうでない人の視点は異なるのであって、記事の内容や章立てを考える際に意識が必要。
  2. 既に存在する他の記事と内容が重なってしまうことは、説明に必要な事柄であれば、気にしすぎなくていい。
  3. 良質な本を紹介する場として、優れた役割を果たす記事にするべき。

 以下、一つ一つ説明していきます。

①研究者の視点の相違

 『孝経述議』の記事の場合、私はもともと以下のような章立てで記事を書いていました。

1 概要

2 伝来
2.1 中国における亡佚
2.2 日本における受容
2.2.1 林秀一による復元

3 内容
3.1 体裁
3.2 解釈の特徴

 「2 伝来」の章に、『孝経述議』がどのように伝えられ、復元されたかということを書き、詳しい内容はその次に書くという順番です。

 別にこの順番だと問題があるというわけではないのですが、ちょっと「研究者的」な説明の仕方ではないか、ということに後から気が付きました。というのも、「まず伝来・版本・底本といった書誌学的問題を解決し、そこからようやく中身の検討に入る」という手順が文献研究における一応の原理原則で、上はその考え方に即した章立てになっているからです。

 私が執筆したものでなくても、こうした書き方になっている記事は散見されます(もちろん、その書き方がおかしいというわけではありません)。例として、底本の問題が先に書かれている「東観漢記」や、本文の信頼性に関する問題が先に触れられている「史記」などがあります。

 ただ、普通に百科事典を調べる方が期待している内容は、まずは「内容」(どんなことが書かれている本なのか)や「著者」(誰が書いたのか)、またその「背景」(なぜ書かれたのか)といった基本的情報でしょう。

 というわけで、他の方のご指摘を受けて、以下のように改めました。

1 成立の背景

2 内容
2.1 体裁
2.2 特徴
2.3 具体的な内容

3 伝来
3.1 中国における亡佚
3.2 日本における受容

4 復元
4.1 経緯
4.2 用いた資料

5 近年の研究
5.1 研究史的意義
5.2 近年の研究の動向

 当たり前ですが、背景・著者→その内容という順番で説明すると、説明の流れが作りやすいですね。研究者としてはどうしてもまず書誌学的問題をはっきりさせておきたくなるのですが、Wikipediaは「研究によってある程度の結論が出ていることを記す場所」ですから、実際の研究手順通りに書かればならないわけではありません。

 記述する内容によって章立ては大きく変わりますが、これを自分の中での一応の基準にしようと考えています。

 少し脱線しますが、最近悩んでいるのは、「詩経」や「書経」といった経書の記事の章立てです。「作者」とか「内容」の説明と、「伝来」や「受容」、また書誌学的問題が相互に絡み合い、スパッと分けて説明できないからです。

 たとえば『詩経』の「内容」を説明する際には、今我々が見ている詩経は「毛詩」系統で……その後誰々に継承され……という「伝来」の問題も、必ずセットで触れなければなりませんよね。これをどう整理するか、今後の宿題ということにしておきましょう。

 

②他記事との内容の重複

 例えば、『孝経述議』の成立の背景を書こうとしたら、『孝経』という経書や、南北朝時代の「義疏」の発達といった周辺事項について、ある程度の説明が必要です。しかし、「孝経」や「義疏」といったページは既に存在するわけで、そこと重なる記述をしてよいものか、という点が最初は気になっていました。

 あちこちに同じ事項に対する内容の異なる説明があると混乱を招きますし、他の記事により詳しい解説があるのに、読者がその前に探索をやめてしまうかもしれません。説明が詳細か簡潔かという差だけならともかく、内容に矛盾が生じてしまうこともあるでしょう。

 まず前提として、執筆前に、他の記事に関連する説明がないかしっかり探しておくべきでしょう。詳細な当該記事への案内を設置するために、テンプレート:See Alsoなどがちゃんと用意されています。

 ただ、私は同時に、「その事項を説明するために必要な事柄であれば、多少の被りは気にしなくてよいのではないか」とも考えています。実際、『孝経述議』の記事では、「御注孝経」や「孝経#日本での受容」への参照を張りながらも、説明自体はこの記事の中で完結するように多少重複させながら作ってあります。

 理由は、一つの記事の中で説明がまとまっている方が分かりやすいというのが一つ。小さな項目の執筆であっても、「全体の流れ」を考慮した記事を作ることが、研究者の立場でWikipediaを執筆する者に求められていることであると考えています。

 また、「重複を気にしなくてよい」というのは、できるだけ簡潔にせねばならない「紙の辞書」では実現できない、Wikipediaならではの大きな利点でもありますね。

 

 さて、ここから更に進んで、私は「あっちの記事とこっちの記事で異なる記述が存在していても、それはそれでいいのではないか」と考えるようになりました。異なる記述があり、それぞれに異なる参考文献が付いている状態は、よく考えてみると、別に悪いものではありません。本来、読者はそこから検証元へと遡り、自分で正しいものを選択すればよいのです。記述がページによって異なることを明示するためのテンプレート:矛盾も用意されています。

 むろん、「矛盾だらけの記述は放置しておいてよい」という暴論が言いたいわけではありません。「バラバラの記述がある中で、多くの方の努力により、徐々に真理的状態に収束していくことを期待する(そして自分もそこに参加する)」ことが重要、といった感じでしょうか。

 動的存在であるWikipediaは、常にその改善に向けた過渡期にあるのであって、執筆者はそのことを認識しつつ、その改善に向けた努力を怠らない――なんだか朱子学みたいな話になってきましたが、現時点ではこんなところだと思います。

 

③良質な本を紹介する場

 これは以前も少しだけ書いたことがあります。

 中国学研究の良書を、中国学に興味のある一般の方に紹介できる数少ない場所です。こんなブログにちまちま書くより、はるかに影響力があります(自分で言ってて悲しくなりますが)。

Wikipediaについて - 達而録

 そうはいっても参考文献の一つ一つに解説を付けられるわけではないのですが、できるだけ見やすいように工夫したり、使う文献を練ることは可能です。

 そこで『孝経述議』では、参考文献の欄を「日本語文献」と「中国語文献」に分けています。更に数が多い場合は、雑誌論文・専門書・概説書などで分け、読者への文献案内としてよりよく機能するように心がけています。

 また、出典として文献を用いる際、同じことが一つの本に書いてあったとしても、出来る限り様々な文献を利用するように心がけています。これは、「独自の研究に偏らない」というWikipediaの方針を守るためにも重要ですが、同時に多様な書籍への入り口を設けるためにも重要です。

 

 もう一つ、「典拠には、その事項を学ぶに当たっての適切な書籍を提示する」ことも、特に研究者が執筆する場合には心がけたいことです。

 たとえば、「東洋史関係の記述への典拠に、日本史の本でちょろっと触れられているだけの部分が用いられている」ということは非常によく見られる現象です。もちろん、これらはきちんと典拠を示して記述している時点で素晴らしいもので、専門家ではない方の執筆であれば、それで十分だと思います。

 しかし、理想的には、そこから文献を辿って調べた読者が、当該の内容に対してより深い知識を得られるような文献を示すべきでしょう。それができるのが専門家・研究者であり、その強みを発揮するべきです。

 

 今度は、より実際的な面として、執筆の際に役に立った技術的なTipsを記事にしようと思います。いつになるか分かりませんが、お楽しみに。

(棋客)