達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

慶應義塾大学斯道文庫蔵『論語義疏』、影印本発売開始!

 本ブログでは、慶應義塾大学斯道文庫による『論語義疏』古写本の発見について、これまで何度か取り上げてきました。

 このたび、勉誠出版よりこの本の影印本が出版されましたので、みなさまにご紹介しておきます。

『慶應義塾図書館蔵 論語疏巻六 慶應義塾大学附属研究所斯道文庫蔵 論語義疏 影印と解題研究』

目次

前言 佐藤道生

◎影印
慶應義塾図書館蔵 〔南北朝末隋〕写本『論語疏』巻六
慶應義塾大学附属研究所斯道文庫蔵 文明十九年写本『論語義疏』

◎解題研究
慶應義塾図書館蔵 〔南北朝末隋〕写本『論語疏』巻六 解題 住吉朋彦
 附 橋本経亮編『遠年紙譜』所収「皇侃義疏料紙」について 一戸渉
慶應義塾圖書館藏 〔南北朝末隋〕寫本『論語疏』卷六 翻印竝に校記 種村和史
 附 慶應義塾大學圖書館藏 『論語疏』卷六 校記舉例 義疏の部 種村和史
慶應義塾図書館蔵〔南北朝末隋〕写本『論語疏』巻六 清家文庫本校記 齋藤慎一郎
 附 慶應義塾図書館蔵 『論語疏』巻六の文献価値―日本漢学研究資料としての特色 齋藤慎一郎
慶應義塾大学附属研究所斯道文庫蔵 文明十九年写本『論語義疏』 解題 住吉朋彦
 附 慶應義塾大学附属研究所斯道文庫蔵 旧鈔『論語義疏』伝本解題 住吉朋彦

 隋代のものとされる例の新出写本の影印が載せられているのはもちろんのこと、文明十九年写本の『論語義疏』がセットになっているのが嬉しいところ。実は『論語義疏』の写本の影印本が出版されること自体が初めてなのです(オンライン上で公開されているものはいくつかあります)。

 この本を少し閲覧する機会に恵まれたのですが、新出写本はフルカラー・原寸大で載せられており、素晴らしい出来栄えです。専門に研究する方は必買の一冊と言えるでしょう。

鄭玄研究のまとめ

 後漢を代表する経学者である鄭玄の研究は、過去様々な方向から深められており、その内容は多種多様です。鄭玄の学問が該博で、また生きた時代が激動の時代であるがゆえに、学者によって研究の切り口が大きく異なり、内容の相違が生まれてくるのでしょう。

 今回は、自分の脳内の整理のため、鄭玄についての文献・論文をリストにして示します。専門の関係上、鄭玄の礼学に関する議論が多いです。

1.基本文献

 まず鄭玄本人について。伝記は『後漢書』に列伝が立てられているほか、『鄭玄別伝』という本がかつて存在したらしく、引用されて一部を確認できます。これらの記述を整理した年譜は色々と出されています。古典的なものは鄭珍のものですが、今は王利器『鄭康成年譜』(斉魯書社、1983)がよく用いられているかと思います。

 次に、本人の著作。

  • 『周禮』『儀禮』『禮記』の三禮注
  • 『毛詩』鄭箋

 他にも様々な著作があったのですが、散佚しました。その輯佚書も多数あり、以下を見れば基本的には事足ります。ただし引用元との対照は欠かせません。

  • 孔廣林『通徳遺書所見録』
  • 袁鈞『鄭氏佚書』

 但し、単独で編纂され考察が付されている以下の著作は、ぜひ参考にするべきです。(皮錫瑞以前にも色々あるのですが、私はあまり見てないです。)

  • 皮錫瑞『尚書大傳疏證』
  • 皮錫瑞『孝経鄭注疏』
  • 皮錫瑞『六藝論疏證』
  • 皮錫瑞『魯禮禘祫義疏證』
  • 皮錫瑞『駁五經異義疏證』
  • 皮錫瑞『箴膏肓発墨守釈廃疾疏證』
  • 皮錫瑞『鄭志疏證』

 ほか、以前紹介した任銘善『礼記目録後案』など、近人のものもあります。

 また、特に『論語』の鄭注は後に敦煌文献が出て増補されましたので、近代の整理を確認する必要があります。

  • 月洞譲『輯佚論語鄭氏注』(1963)
  • 金谷治『唐抄本鄭氏注論語集成』(平凡社、1978)
  • 王素『唐寫本論語鄭氏注及其研究』(文物出版社、1991)

 さて、鄭玄の学説を理解する際、鄭玄に比較的近い時期の鄭説に関する記述を参考にすることもよくあります。これは鄭玄の学説そのものとは区別しなければなりませんが、古典的な鄭説理解を示しており重要です。色々な材料が用いられますが、例は以下。

  • 正史(特に禮志、禮樂志など)
  • 経書の注疏(特に毛詩・三礼の疏)
  • 杜佑『通典』

2.考証学者の研究

 鄭玄注を読む際には、どうしても色々な人の手助けを得なければなりません。これは、鄭玄の注釈は、その一部分だけを見ていてもほとんどが解決しないからです。前後の文脈と状況の繋がりと、他の経書との参照関係を的確につかまなければなりません。このうちの特に後者、つまり他の経書の関連記述を見つける際に、考証学者の著作はやはり有用です。

 ただこれは、考証学者が示している理解が正しいかどうか、とは別問題です。鄭学と考証学が異なる原理で動いているということについては、近年色々と研究が進んでいます。特に、考証学者は鄭玄を重視する態度を取るので、考証学の著作だけを読んでいるとこのことを見落としがちです*1

 以下、比較的よく助けを借りている本を厳選しました。

  • 徐乾學『讀禮通考』
  • 金鶚『求古録禮説』
  • 孫詒譲『周禮正義』
  • 皮錫瑞『孝経鄭注疏』

 特に孫詒譲『周禮正義』は毎日お世話になっているといってもよいほどです。専門の関係上、礼学関係ばかりになってしまいましたが、鄭箋の手引きになるような本としてはなにがよいですかね。

 ほか、禮について調べる際によく江永『禮書綱目』を見ていますが、鄭注を読むためというものではないかもしれません。ほか、鄭注のよき理解者とされる顧千里『撫本禮記鄭注考異』については、以前記事にしました

2.近人の研究

 便宜的な分類なので、同じ研究があちこちの項目に登場していることがありますが、あまり気にしないでください。ここでは日本の研究を中心に整理しましたが、もちろん中国にはより多くの研究があります。

2-1.鄭玄の学問に関する研究

 藤堂氏のものが古典的で(ただし後篇第四章が闕文)、鄭玄の生涯を辿りながら、各著作の成立順を考察し、解釈の特徴を論じています。簡潔にまとまっていて読みやすいのは池田秀三氏の「鄭學の特質」で、この論文が収められている『兩漢における易と三禮』と一緒に眺めれば近年の議論の流れを掴むことができます。

2-2.鄭玄の生涯、交友に関する研究

  • 藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)
  • 王利器『鄭康成年譜』斉魯書社、1983
  • 吉川忠夫「鄭玄の学塾」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』京都大学人文科学研究所、1987)

 吉川論文は、鄭玄の開いていた私塾とその弟子について分かる情報を網羅しているものでとても便利です。これに加えて、池田氏の以下の論考は、主役は後漢の他の儒学者ですが、いずれも鄭玄との対比を意識しながら書かれているので、鄭玄を理解するうえでも役に立ちます。

  • 池田秀三「馬融私論」(『東方學報』52、p.243-284、1980)
  • 池田秀三「『白虎通義』と後漢の學」(『中國古代禮制研究』京都大學人文科學研究所、1995)
  • 池田秀三「盧植とその「禮記解詁」-上-」(『京都大學文學部研究紀要』29、p1-36、1990)
  • 池田秀三「盧植とその「禮記解詁」-下-」(『京都大學文學部研究紀要』30、p1-39、1991)

2-3.鄭玄と王肅、その後の展開

 加賀氏の著作は、鄭玄から王肅、杜預、偽孔伝などを含めた後漢から魏晋の注釈の総合研究です。古橋氏や喬氏の鄭玄・王粛説の比較は明快に整理されており、鄭玄入門の文章としても推薦できるものです。

(棋客)

*1:池田秀三「訓詁の虚と実」(『中国思想史研究』四、一九八一)、葉純芳「孫詒譲《周礼正義》鄭非経旨、賈非鄭意辨」(『学術史読書記』)、喬秀岩「学《撫本考異》記」(『学術史読書記』)などを参照

『孝經述義』廣至德章について(2)

 前回の続きで、劉炫の『孝經述義』の廣至德章を見ていきます。経・伝は以下です。

教以孝所以敬天下之爲人父者也
〔孔伝〕所謂「敬其父則子悦」也。以孝道敎、卽是敬天下之爲人父者也。

教以弟所以敬天下之爲人兄者也
〔孔伝〕所謂「敬其兄則弟悦」也。以弟道敎、卽是敬天下之爲人兄者也。

教以臣所以敬天下之爲人君者也
〔孔伝〕所謂「敬其君則臣悦」也。以臣道教、卽是敬天下之爲人君者也。古之帝王父事三老、兄事五更、君事皇尸、所以示子弟臣人之道也。①及其養國老、②則天子袒而割牲、執醬而饋之、執爵而酳之、盡忠敬於其所尊、以大化天下焉。③皇、君也。事尸者謂祭。之像者也。尸卽所祭之象、故臣子致其尊嚴也。④三老者、國之舊德、賢俊而老、所從問道誼故、有三人焉。五更者、國之臣、更習古事、博物多識、所從諮道訓故、有五人焉也。

 最後の長い孔伝について、前回の記事で、劉炫がこの孔伝の全体の位置づけと、前半の内容について説明したところを見ました。今回は、「及其養國老」以下の部分です。

 ①傳自「及其」以下覆述上「父事」「君事」所為之事。王制陳虞、夏、殷、周四代養國老於大學、「國老」即三老五更是也、故引樂記天子養三老五更之事以說之。

 孔傳の「及其」以下は、上の「父事」「君事」で行うことを繰り返し述べる。『礼記』王制には虞・夏・殷・周の四代において國老を大學において養ったとあり、「國老」とは三老・五更のことである。そこで『礼記』樂記の天子が三老・五更を養ったことを挙げて説明する。

 『礼記』王制には、「有虞氏養國老於上庠、養庶老於下庠。夏后氏養國老於東序、養庶老於西序。殷人養國老於右學、養庶老於左學。周人養國老於東膠、養庶老於虞庠」とあります。「國老」はここから来た言葉だとするわけです。

 『礼記』樂記には「食三老五更於大學、天子袒而割牲、執醬而饋、執爵而酳、冕而揔干、所以教諸侯之弟也」とあり、孔伝はこれを引用しています(『礼記』祭義にも同じぶんがあります)。

 ②「袒而割牲」、謂如祭祀之禮、人君親執鸞刀以啟其毛也。「執醬而饋」、謂親薦脯醢也。「執爵而酳」、謂親獻酒也。父、兄、君者己之所尊、王者盡忠敬於其所尊、以大化天下焉。傳上句雖言「君事皇尸」、而「君事」之理不著、故更自解之。

 「袒而割牲」とは、祭祀の禮のように、君主が自ら鸞刀(祭祀用の装飾のついた刀)を用いて生贄の毛皮を切り開くことを指す。「執醬而饋」とは、君主が自ら調味料を進めることをいう。「執爵而酳」とは、君主が自ら酒を献上することをいう。父・兄・君とは自分が尊ぶ対象であり、王者は忠敬をその尊ぶ対象に尽くし、それによって大いに天下を教化する。孔傳では上句で既に「君事皇尸」と解説しているが、「君事」の意味が明らかでないので、更に自分で解説したのだ。

 前回も述べましたが、劉炫としても、ここの孔伝の作りが他と異なることには注意を払っているようです。つまり、最初に孔伝で述べられた「君事皇尸」の意味が分かりにくいから、孔伝が更に自分で解釈した、という二重構造になっているわけです。

 一目見た感じでは、孔伝の「皇、君也」以下は別の人が付加したのではないか、とも思えます。偽孔伝の成立事情はよく分かっていませんが、違和感の残るところですね。

 ③「皇、君」、釋詁文也。「尸」訓「主」也。古之祭者、必以人為神主、謂之為尸、故云「事君尸者謂祭」也。郊特牲云「尸神象」、故云「尸即所祭之象」也。象其君父、故臣子致其尊嚴也。

 「皇、君」は、『爾雅』釋詁の文である。「尸」は「主」と訓ず。古の祭では、必ず人を神の主とし、これを「尸」としたから、孔伝に「君の尸に仕えることを祭という」という。『礼記』郊特牲に「尸とは、神の象(シンボル)」とあるから、「尸とは、祭る対象の象」という。その君主の父の象であるから、君主は臣子としてその尊厳に仕える。

 「尸」は、祭祀の際に神の受け手として用いる依代・形代のこと。祭祀の対象の死者に似せた存在で、「象」という言葉で表現されています。

 以下、三老・五更について孔伝が改めて解説するところについての『述議』です。

 ④傳於上句既言三老五更、復說其所用之人主名意。年老者三人、更事五人、俱是年老並有德業。三老尊、以年齒為名、故以「舊德」「賢俊」解之。五更卑、以使能為名、故以「更習」「博識」解之。其實互相通也。王制云「養老乞言」、故云「所從問道義」「諮訓故」也。「訓故」謂先王教訓之故事也。蔡雍以「更」為「叟」。叟、長老之稱也。其字與「更」相似、書者轉誤耳。鄭玄樂記注云「老、更互言耳、皆老人更知三德五事者」。其意以三老、五更各一人、以「三」「五」為名耳。

 孔傳では上句ですでに三老・五更について言っているが、再びその用いる人や名前について説明する。年老の者が三人、世事に通じた者が五人、ともに年老で德の行いがある者である。三老は(五更より)高い地位で、年齢によって名称とするから、「舊德」「賢俊」として解説する。五更は(三老より)低い地位で、その能力によって名称とするから、「更習」「博識」として解説する。事実としては、互いに通じるものである。『礼記』王制に「老人を養い意見を乞う」とあるから、孔伝は「道義を問う」「故事を尋ねる」という。孔伝の「訓故」とは、先王の教訓の故事を指す。蔡雍は「更」を「叟」とし、「叟」は長老の呼称で、その字が「更」と似ているから、筆記者が誤って転写したとする。鄭玄の『礼記』樂記の注には「老と更は互言で、いずれも老人で三德・五事を知っている者のこと」という。鄭玄の意は、三老・五更がそれぞれ一人で、「三」「五」はそう呼ばれているだけということである。

 蔡雍とあるのは蔡邕のことです。『三国志』魏書・三少帝紀の裴注に「蔡邕明堂論云:「更」應作「叟」。叟,長老之稱,字與「更」相似,書者遂誤以為「更」。「嫂」字「女」傍「叟」,今亦以為「更」,以此驗知應為「叟」也。臣松之以為邕謂「更」為「叟」,誠為有似,而諸儒莫之從,未知孰是」とあります。

 孔伝では、三老・五更はそれぞれ三人・五人任命するようですが、鄭玄はそれぞれ一人ずつであるとし、『述議』では、歴代の制度で鄭説と孔伝のどちらが採られているのか分析しています。それが以下の部分です。

 養老之禮、希世間出。漢明帝永平二年、始尊事三老、兄事五更、以李躬為三老、桓榮為五更。是鄭玄以前已有以一人為說者也。魏高貴鄉公甘露三年、帝入學、將崇先典、乃命王祥為三老、鄭小同為五更。吳蜀晉宋皆無其事。後魏高祖孝文皇帝大和十七年、鄴城行養老之禮、以尉元為三老、游明根為五更、各用一人、從鄭說也。

 養老の礼は、世に出ることが稀である。漢の明帝の永平二年に、初めて尊んで三老に仕え、兄のように五更に仕え、李躬を三老、桓榮を五更とした。これは、鄭玄以前から、すでに三老・五更はそれぞれ一人とする説を説くものがいたのである。魏の高貴鄉公甘露三年には、帝が入學し、先典を崇めて、王祥を三老、鄭小同を五更とした。吳・蜀・晉・宋においてはいずれもこのこと(養老の礼)はない。後魏の高祖孝文皇帝大和十七年には、鄴城において養老の礼を行い、尉元を三老、游明根を五更とし、それぞれ一人を用いた。鄭説に従っている。

  それぞれ、『後漢書』『三国志』『魏書』に載っている出来事です。前回、劉炫が『東観漢記』『漢官儀』などを見ていることは述べましたが、ここにこういった書籍も加わるわけです。

 劉炫は、『修文殿御覧』を編纂していた北斉の時期に頭角を現し(ただし『修文殿御覧』編纂者のリストには名を連ねていません)、隋では国史編纂にも携わり、隋の開皇の蒐書の恩恵も受けていたはずです。彼は恵まれた資料を閲覧しうる環境にあり、それゆえに『正義』に繋がる学問を残すことができたのでしょう。

(棋客)

『孝經述義』廣至德章について(1)

 『孝経』の様々な注釈を読み比べていると、色々と面白い発見があるものです。むろん、それはどんな経書であっても同じなのですが、『孝経』の場合は全体量が少ないですから、手軽に取り組めるという利点(?)があります。

 今回は、劉炫の『孝經述義』の廣至德章を見ていきます。まず、経文と偽孔伝を掲げておきます。廣至德章は、今文では第十三章に当たりますが、古文では第十六章に当たります。

教以孝所以敬天下之爲人父者也
〔孔伝〕所謂「敬其父則子悦」也。以孝道敎、卽是敬天下之爲人父者也。

教以弟所以敬天下之爲人兄者也
〔孔伝〕所謂「敬其兄則弟悦」也。以弟道敎、卽是敬天下之爲人兄者也。

教以臣所以敬天下之爲人君者也
〔孔伝〕所謂「敬其君則臣悦」也。以臣道教、卽是敬天下之爲人君者也。古之帝王父事三老、兄事五更、君事皇尸、所以示子弟臣人之道也。及其養國老、則天子袒而割牲、執醬而饋之、執爵而酳之、盡忠敬於其所尊、以大化天下焉。皇、君也。事尸者謂祭。之像者也。尸卽所祭之象、故臣子致其尊嚴也。三老者、國之舊德、賢俊而老、所從問道誼故、有三人焉。五更者、國之臣、更習古事、博物多識、所從諮道訓故、有五人焉也。

 最後の孔伝は長文に亘る上、途中から経文の説明を離れ、三老・五更の説明が主になっています。『孝経』孔伝は経文に即した訓詁が比較的多いので、ここはちょっと珍しいところでしょうか。

 では、この孔伝に対する『孝経述議』の解説を見ていきましょう。字句は、林秀一先生の復元本を用いていますが、私のタイプミスがあるかもしれません。

〔孝経述議〕

 議曰、此章申明上章之義、故傳於三者皆言「所謂」、引上章以解此、明此言為上章發也。「教以臣」不言「教以忠」者、「忠」謂盡其忠心、「以臣」謂臣服上命。禮記稱「朝觀所以教諸侯之臣」、「臣」亦事人之稱、故云「教以臣」也。

 議曰、①この章は前の章の義を明らかにしているので、孔傳では三者に対していずれも「所謂」といい、前の章を引用してこれを解し、この言葉が上章のために発されたものだと明らかにする。②「教以臣」が「教以忠」と言わないのは、「忠」は自らの忠の心を尽くすことを指し、「以臣」は家臣が君主の命令に服従することを指す。『禮記』祭義では「朝觀所以教諸侯之臣(朝觀し、それによって諸侯が「臣」たることを教える)」と称するから、「臣」もまた人に仕えることの言い方で、よって「教以臣」というのだ。

 ①孔伝で所謂の語を用いて「敬其父則子悦」「敬其兄則弟悦」「敬其君則臣悦」と言っていますが、これは前の章に出てくる言葉で、孔伝は前の章の経文と対応させてここの経文を理解したわけです。

 ②士章に「故以孝事君則忠、以敬事長則順」とあるなど、君主に仕えることは「忠」という語によって表すこともあるのに、ここで「臣」という語を使うのは何故か、という問いに対する答えです。

 經唯三云「教以」而以教之事不明、雖知經典群言、皆是教此三事、而文緩意遠、無多指斥。傳舉王者之屈己範物尤章著者、以此經居三事之末、故於此總說之焉。

 經文ではただ三回「教以」というだけで、教えの具体的な内容は明らかでない。經典の様々な言葉がいずれもこの三事を教えていることは分かるのだが、その文意はとらえがたく、多く指し示して書かれているわけではない。孔傳は、王者が自分を卑下し人に模範を示すことが最も明らかであるものについて、この經文が三事の末尾にあることから、ここでこれについて総論するのである。

 先ほど、ここの孔伝がちょっと変わっている旨を述べましたが、それは劉炫も承知していて、ではなぜここで総論めいたことが述べられているのか、解説したわけです。

 以下、孔伝の内容に入っていきます。

 樂記曰「食三老五更於大學、天子袒而割牲、執醬而饋、執爵而酳、所以教諸侯之弟也」、是「古之帝王父事三老、兄事五更」也。

 『礼記』樂記に「三老・五更を大學で饗応し、天子は自ら袒(上衣を脱ぐこと)して犠牲に刀を入れ、醬(調味料)をつけて献上し、コップを渡して食後の酒を献上し、それによって諸侯が「弟」たることを教える」とあるのが、孔伝のいう「古の帝王は父として三老に仕え、兄として五更に仕える」である。

 詩小雅楚茨之篇、陳王者祭祀之禮、云「皇尸載起」、是「君事皇尸」也。

 『詩』小雅・楚茨篇に、王者の祭祀の禮を列挙し、「皇尸載起(先王の尸が立ち上がる)」というが、これが孔伝の「君主のように先王の尸に仕える」である。

 ここは、孔伝の根拠を他の経文から持ってくるところです。「君主のように先王の尸に仕える」とは、「天子が、死んだ先主の尸に対して、それが君主であるかのように(つまり自分が臣であるかのように)仕える」ということです。尸とは、祭祀の際に、祀る対象となる死者の代わりに置く人、いわゆる形代(カタシロ)のことです。

 さて、このあたりの『孝経述議』の原文を『五経正義』風に書くと、以下のようになるのではないでしょうか。

  • 云「古之帝王父事三老、兄事五更」者、樂記曰「食三老五更於大學、天子袒而割牲、執醬而饋、執爵而酳、所以教諸侯之弟也」、是「古之帝王父事三老、兄事五更」也。
  • 云「君事皇尸」者、詩小雅楚茨之篇、陳王者祭祀之禮、云「皇尸載起」、故云「君事皇尸」也。

 くどい書き方ですが、以下の注釈が長文に亘る場合など、このように最初に解釈の対象を示している方が親切ではあります。義疏の流れで言うと、『孝経述議』は比較的原資料の状態(劉炫の講義から作られた注釈集)に近く、『五経正義』はこういった義疏資料をもとにしながら、より整形されたものであることが何となく分かります。

 以父兄君之禮事此三人者、所以示天下之民以子弟臣人之道、是之謂「教以孝」「教以弟」「教以臣」也。

 父・兄・君の禮によってこの三人(三老・五更・皇尸)に仕えるのは、それによって天下の民に子・弟・臣としての人の道を示すためであり、これを「教以孝」「教以弟」「教以臣」という。

 樂記止言設食禮以養三老五更耳、不言以父事兄事也。成義說云「天子尊事三老、兄事五更。」應劭漢官云「三老五更、三代所尊也。天子父事三老、兄事五更、親祖割牲、三公設几、九卿正履。」此二者及東觀漢記皆言「父事」「兄事」、則孔氏之前當有書傳云然。

 『礼記』樂記では、ただ饗応の禮を行い三老・五更を養うことしか言わず、「父のように仕える」とか「兄のように仕える」とかは言わない。成義說には「天子は尊んで三老に仕え、兄のように五更に仕える」という。應劭『漢官儀』には「三老・五更は、三代が尊ぶところである。天子は父のように三老に仕え、兄のように五更に仕え、自ら犠牲に刀を入れ、三公が机を置き、九卿は履を正す」という。この二者と『東觀漢記』では、いずれも「父事」「兄事」をいうから、孔氏の前に書伝があってそう言っていたのだろう。

 「父のように仕える」とは、「君事皇尸」の例と同様で、「三老に対して、彼が父であるかのように(自分が子であるかのように)仕える」、の意。兄も同様。

 「成義説」「應劭漢官」「東觀漢記」が並んで出てくるので、最初の「成義説」も何らかの本を指すかと思うのですが、これは何なのでしょうか。よく分かりませんが、劉炫の意図としては、孔伝が「兄のように」とか「父のように」と言っているのは、孔氏の前からそういう説があって、それに従って言っているわけで、無根拠ではないということです。よって最後の「書伝」は普通名詞ですね。

 樂記養三老五更并云教「弟」、此以事三老為教「孝」者、樂記上文云「祀于明堂而民知孝、朝覲然後諸侯知所以臣」、「臣」「孝」之文已具於上、故於三老並云教「弟」。此經之意、言王者以己先人朝覲、乃使諸侯朝己、非天子身有朝事、不得以朝為教臣、故以祭為教臣。既以「事皇尸」為教臣、故以「事三老」為教「孝」、「事五更」為教「弟」。孔傳自顧為義、故與樂記不同。

 『礼記』樂記では、三老・五更を養うことと合わせて「弟」を教えるというが、『孝経』のここでは三老に仕えることを「孝」を教えるとしているのは、樂記は上文で「明堂に祀ることで民は孝を知り、朝覲することで諸侯は臣として仕える方法を知る」と言っていて、「臣」「孝」の文は既に上文に備わっているから、三老(・五更)については「弟」を教えるという。この經の意は、王者は自分の先人に対して朝覲し、諸侯に自分を朝見させるため、天子が自ら朝事を行うわけではないから、朝を「臣」を教えるものとすることはできず、よって祭が「臣」を教えるものとした。「事皇尸」を臣を教えるものとしたのだから、「事三老」は孝を教えるもので、「事五更」は弟を教えるものとなる。孔傳は自ら考えて義を定めたため、樂記と異なっている。

  「言王者以己先人朝覲、乃使諸侯朝己」がしっくり訳せていません。一段の意図としては、『楽記』と『孝経』孔伝の「孝」「弟」「臣」の対応の相違を論じています。

  1. 「孝」―楽記「祀明堂」―孝経「三老」
  2. 「弟」―楽記「三老・五更」―孝経「五更」
  3. 「臣」―楽記「朝覲」―孝経「祭祀」

 次回に続きます。

(棋客)

倉石武四郎「清朝小学史話」

 本ブログでは、たびたび『説文解字』の版本に関する話をしてきました。

chutetsu.hateblo.jp

 今回は、倉石武四郎の「清朝小学史話」(『漢字・日本語・中国語 倉石武四郎著作集第二巻』くろしお出版、1981)のp.302~p.306から、清代における『説文』小徐本の状況について整理してみます。

 少し復習しておきますと、もともと『説文』には二系統の版本が存在します。南唐北宋の頃、徐鍇が『説文』原文に校定と注を附し、『説文解字繋伝』を作りました。これが「小徐本」です。そしてその後、兄の徐鉉が『繋伝』に更に校定を加えました。これが「大徐本」です。

 大徐本は、明末清初の頃に汲古閣で覆刻され、徐々に広まり始めます。しかし、小徐本は埋没した状況が続き、入手困難な状況が続いていました。今日紹介するのは、この頃の学者と小徐本との関わりについての話です。

 大徐本はかくして天下に風行したが、ひとり小徐本は久しく埋もれて世に知られなかった。たとえば乾隆三十四年、かの説文理董の著者呉穎芳が年六十八で銭塘の汪憲の振綺堂に寄寓した際にも、小徐本は善本に乏しいことを憾みとしていた。当時、同じ杭州の蔵書家として聞こえた郁氏のところにも小徐の鈔本は儲えられていたが、字体も悪く脱落もあり句読さえできかねたと云われ、小徐の善本を求めることは学者と云わず蔵書家と云わず誰しも念願とするところであった。

 今日のお話は、清代の学者たちが念願の小徐本の善本を入手し、また善本の間で校勘を加え、覆刻されて世に広まるまでの話です。

 たまたま振綺堂の客であった呉江の潘瑩中(潘耒の孫)のことばに、自分の親戚で蘇州の南濠に住む朱文游が影朱鈔本繋伝を所蔵しているとあったので、汪憲は大いに喜んで、三十四年も十月の末つかた、これも振綺堂に寄寓中の朱文藻(仁和の人で呉穎芳について学んだ、時に三十五歳)を遣わして借り受けることにした。はじめ潘瑩中との約束では、あらかじめ瑩中が朱文游の家に行って借り出し呉江の自宅に置いておくということであったので、朱文藻は船を雇ってただちに呉江をさして出かけた。潘氏は呉江の大船坊に住んでいたが、さすが土地の名族とて、船を棄ててから半里ばかり、村という村はすべて潘という姓である。やがて瑩中の家に着いたが、たまたま瑩中は外出していて、その置きてがみには直接南濠まで取りに行ってくれと書いてあった。そこで文藻はかさねて南濠にむかい、朱文游の家をたずね、好き機会とばかり、あまねくその蔵書を拝見した。

 お目当ての本を探す朱文藻の執念を感じる逸話です。

 朱文游の蔵書の堂は三つあって、一つは宋元板、一つは旧鈔本、も一つは精刻精鈔本を満たし、近ごろの庸劣な書物は一冊もまじっていない、まことに蔵書家の鉅観というべきである。その日も暮れて、待望の繋伝を借り受け、夜は振綺堂の友の蘇州盤門百花洲に住む陳逸樵の家に宿り、翌日あらためて船を雇い、逸樵もともども杭州に帰った。それから後、朱文藻は手ずから繋伝を写すとともに、繋伝考異四巻附録二巻を著し、これを汪憲に示した。汪憲も大いにこの著述を喜び、これを秘笈に収めて容易には他人に見せなかったと云う。

 ここまで、朱文藻が朱文游のもとから小徐本を借り受け、『繋伝考異』を著し、汪憲に示したという話。

 はじめ山陽の呉玉搢も繋伝に興味を持ち、かつて呉郡の薄自昆から借りて門人を手わけして写しとっておいたが、後に東海の徐堅がさらに呉玉搢に借りて写しとったことがある。そこで呉穎芳も徐堅から借りる交渉を試みていたところ、早くも朱文游の蔵書を見ることができて眼福を喜んだが、つづいて三十七年の秋には徐堅がみずから秘蔵の鈔本を携えて杭州に遊び、振綺堂で呉穎芳に面会し、さきの朱文游本と校対した。呉氏がさきの説文理董の後篇(南学國学図書館の景印本に拠る)を著し、多く小徐の説を採りいれたのはこの一段の因縁によるのである。

 薄自昆→呉玉搢→徐堅の手に渡った小徐本が、朱文游→朱文藻→呉穎芳と渡った小徐本と出会い、対校されるシーンはなかなか感動的です。本と本が一期一会だった時代、彼らは一つの異同の見逃しもないように、命を賭けて校勘したのでしょう。

 これよりさき乾隆三十六年に汪憲は五十一歳で没したが、その翌年のこと、朝廷では四庫全書館を開き天下の遺書を採訪すべき旨の詔が下された。そこで杭州の蔵書家もみな踴躍して秘蔵の書籍を進呈した。この時の振綺堂の当主は汪憲の長子汪如瑮であって、まづ儲蔵の善本二百余種をさしだした。すべて浙江巡撫の手で纏められたものは五千余種にのぼったと云う。しかし巡撫はなおこれに満たず、その選び残りの中から更に百種だけ選ばうと考え、各蔵書家にその旨を通達した。ところが五千余種のほか更に百種を加えることはなかなか困難なしごとで、振綺堂でいろいろ尋ねあぐんだ末、ふと汪憲が生前秘笈に収めておいたものを開いたところ、料らずも繋伝考異ならびに附録が現れた。これこそ亡父の遺著に相違ないというわけで、考異には汪憲の名を記し、附録だけは時々朱文藻の案語が見えるのでこれは文藻の名を記して進呈した。それが四庫全書本の考異に誤って汪憲の提題されたいわれである。附録は四庫館の意見で、上巻だけ採って下巻は削られた。

 『四庫提要』の該当箇所の原文は以下からどうぞ。確かに、「汪憲」の名が冠されています。

全國漢籍データベース 四庫提要 說文繫傳考異 四卷 附錄 一卷

 さて四庫全書に採録された繋伝は、四庫の総纂官紀昀の家蔵本によったものであるが、たまたま四庫全書の完成した頃、おりから京師にあった戦場の汪啓淑が四庫の中の繋伝の稿本を見て、これを愛するのあまり広く世に伝えたいと考え、旧鈔本数種を合わせて乾隆四十七年というに小徐の繋伝を刊行した。これが宋より以後、小徐本の刊行された初めであり、大徐本の刊行に比べて少くとも七十年ほど遅れている。もっともこの本は、巻二十五は昔ながらに闕巻のままで、そこは大徐本で足してあるし、その他の巻の闕文も大徐本から取った形跡があって、それは反切の文字を比較しても容易に分かることであり、示部などは徐鉉の新附字まで竄入してあること、すでに人々の注意しているとおりである。またこの本はすべて朱文藻の考異によって校改され、附録一巻もそのまま採録されている。

 これが、小徐本の代表的な刊本のうちの一つである「汪啓淑本」です。

 その後、汪啓淑は郷里杭州に帰ったが、やがて世を去り、その飛鴻堂や開万楼に満ちていた蔵書も今は跡かたもなく散りはて、生前はことに愛撫した繋伝の版も行きかた知れずなってしまった。その頃はかの朱文藻もすでに七十の老翁となり、ふと懐旧の想いにまかせ、ふたたび南濠を訪れたが、朱文游の蔵書はすでにことごとく他人の手にわたり、その家までも他姓に帰している。さらに百花洲に立ちむかい陳逸樵の宅を問うたが、ありし頃の道すじさえさだかならず、三十年人事の転変に今昔の感を深うした。しかも書生の結習はなお忘れがたく、嘉慶十一年七十二歳にして王昶の家に寄寓した時、はじめて汪啓淑の重刊繋伝を見て、ふたたびこれを己の旧作の考異と校合し、遂に考異の増訂本を作りあげた。朱文藻にちなむこの物がたりは詳かに考異の増訂本の序中に記され、読む人の感慨をそそるものがある。

 一度やり遂げた仕事を、新しく汪啓淑本が出たことで再度増補した朱文藻の、小徐本に対する情熱を感じる逸話です。

 なお汪啓淑の繋伝は同じく乾隆中に馬俊良の竜威秘書に再刻されているが、越えて道光十九年、時の江蘇学政の祁寯藻の手によって精密な校定本が作られた。はじめ祁氏は段注説文によって顧千里・黄丕烈の家に旧鈔繋伝の善本を伝えていることを知っていたので、着任とともに時の暨陽書院の山長李兆洛にこの書物のことを問うた。元来李兆洛は顧千里と同学のよしみがあり、顧千里が没したときその墓誌銘も書いてやったし、顧千里の孫の瑞清は李兆洛の門生でもあったから、てがみを送って顧氏の鈔本を借り、汪啓淑・馬俊良の本を校正した。

 小徐本の刊本として代表的なもののうち、もう一つがこの「祁寯藻本」です。この本については、以前整理したことがありますのでご参照ください。

小徐本「祁寯藻本」についての記事の訂正 - 達而録

 時に蘇州の蔵書家として聞こえたのは汪士鐘であって、黄不烈の百宋一塵の宋本はほとんど汪士鐘の藝芸書舎に帰したと云われていた。李兆洛は汪士鐘の所蔵の南宋刻本繋伝に目をつけ、ぜひ借り受けたいと頼んだが、汪士鐘はわづかに第四函すなわち三十二巻から四十巻までを齎したばかり、そのほかは所蔵しないと云ってことわった。とは云え、この宋刻本こそは顧千里の鈔本の源流であることがわかり、心中さすがに喜びに堪えなかったと云う。

 この校定のしごとは李兆洛を首班とし、その門人の承培元・夏灝・呉汝庚がこれを担当し、苗虁や毛嶽生も智恵を貸したようである。この小徐本校刻の事業が江蘇学政の祁寯藻によって完成されたことは、ちょうど朱筠が安徽学政として大徐本を校刻したことと同じ動機に出づるもので、いわゆる「雙美の挙」として長く語り伝えられている。

 学政とは、その地方の教育・学校に関する行政を司る役職です。

 以上が、清代の小徐本の出版に至るまでの顛末を説明する部分でした。

 そして最後に、四部叢刊(民国期に善本を集めて影印したシリーズ)での小徐本の版本について説明されています。

 なほ近年上海商務印書館で編印した四部叢刊に収められた繋伝は、はじめ銭遵王の鈔本に拠っていたが、次ぎに善本と改換した時には、その三十巻以後を宋刻本に代えた。この宋刻本は常熟の瞿氏の鉄琴銅劒楼の蔵書であるが、蔵書印によって見れば黄丕烈・汪士鐘の手を経ていること明らかで、つまり汪士鍾が隠して見せなかった三十、三十一の二巻がはじめて公開されたわけである。しかも黄・汪の二家以前に遡れば、かの明の寒山趙氏の故物であったこと、巻首に残る「呉郡趙宦光家経籍」の八字の陰文方印がたしかに証明している。これによっても明の蔵書家が絶えむとする学術を暗黙の間に保護してくれていたことが分かるわけであり、説文長箋の疏陋もあるいは償ってあまりあるとも云えよう。

 以前の記事で、「同じ四部叢刊本でも、初印本と重印本で異なる部分があるそうですが、この辺りはまだ整理できていません」と書きましたが、こういった事情があったのですね。

(棋客)