達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

パンセクシュアルを名乗ること:過去

  1. パンセクシュアルを名乗ること:前提
  2. パンセクシュアルを名乗ること:過去(今回)
  3. パンセクシュアルを名乗ること:未来
  4. パンセクシュアルを名乗ること:文献・リンク集

 昨日の記事で、自分がパンセクシュアルであると名乗ることについて、その前提や意味をあれこれと考えた。今回は、まずは自分の過去の経験に照らして、自分がパンセクシュアルであるということについて書こうと思う。

 経験から語るといっても、乱暴にまとめてしまえば一言で済む。つまり、私は、ノンバイナリー、女性ジェンダー、男性ジェンダー、のいずれの人にも恋愛的な魅力を感じたことがあるから、性的指向としてはパンセクシュアルに当たる、ということだ。(と言いつつ、「恋愛的な魅力」とは何かというところで、どうも自分の感覚が普通とは異なるような気もしていて、この説明だけでは到底足りないとも感じる。)

 なお、「パンセクシュアル」には、似た意味合いで「バイセクシュアル」という言葉もあり、こちらの方が世に馴染んだ言葉である。ただ「バイ」という言葉に二元論的な響きを感じて(特に日本語訳に当てられた「両性愛」はその響きが強いと思う)、一旦使うのをやめている。ただ、パンセクシュアルと人に言って伝わらなかった時には、バイセクシュアルという言葉も使いつつ、色々追加で説明することはある。結局、一つ言葉を決めたところで、その場その場で相手にどう伝わるかは違うので、上手くコミュニケーションしながら伝えていくしかないことには変わりがない。(なお、いま書いたことはあくまで私が文字面から受ける印象を言ったまでのことで、「バイセクシュアル」と名乗る人が、必ずしも二元論的なとらえ方をしているというわけではない。どういう意味でその名乗りを使うのかは人それぞれなので、名乗られて分かった気になるのが一番危ないよ*1

 さて、上の説明では、私のことを「ノンバイナリーも女も男も好きになる人」、つまり結局は「〇〇の性の人を好きになる人」というようにとらえられたかもしれない。また、私が思うに、世間一般の受け取り方では、たとえば「バイセクシュアルの人」=「女も男も好きになる人」、つまり特定の性別としての「女」と「男」が好きになる人、とかいうニュアンスで受け取られている気がする。

 もちろん、当事者で実際にそういう感覚の人もいると思うのだけど、私の場合は、「○○の性の人を好きになる」というその感覚自体が、もう自分の実感とはかけ離れている。私の場合は、人に惹かれるという時に、その人のセクシュアリティが何であるかが条件にならない、という感覚が近い。

 むろん、セクシュアリティはその人を形作る重要な要素の一つで、その人のセクシュアリティを私が尊重するのは前提だし、私がある人のことを好きだという時、それはその人のセクシュアリティを含めたその人が好きだということである。ただ、その上で、その人のセクシュアリティが、その人を好きになるかどうかの第一の条件として機能しない、というのが私の感覚だと思う。良くも悪くも、パンセクシュアルという言葉なら、その辺を一から説明しやすいと感じている。

 というわけで、私はパンセクシュアルである。

 

 ただ、もっと書きたいこともあるので、過去の経験を書いていく。と言いつつ、直接の知り合いも多く読んでいるこのブログで、個人特定できる人を登場させるわけにはいかないので、できるかぎり遡って、中学生ぐらいの頃の自分を思い出して書き起こしてみる。(なお、私の中学はいわゆる男子校である。) 

 たとえば、中学生あたりから、周りから「好きなタイプは何か」みたいな話題が持ちかけられることがあった。当時の自分は、その質問にどう答えたらよいか、よく分からなかった。その理由は、まず一つに、その質問が私に投げかけられるとき、「好きな"女性の"タイプ」に答えが限定されていたことがあると思う。つまり、私がシス・ヘテロの男性であると決めつけて、その答えには、女性の何かしらの性質を答えることが期待されていて、私はそこに馴染めなかった、ということだ。

 ただ当時は、明確に現実の男性に惹かれた経験は多分なかったと思う。これだけ異性愛規範が浸透した社会で生き、かつ男子校というホモソーシャルの強い場にいながらも、経験がないうちから自分が将来好きになる人が必ずしも女性には限らないだろうと当時考えていたのは、もとから持っていた内面の感覚がある上で、同時期に触り始めたインターネットが言語化を助けてくれた面もあると思う。

 その頃は、二次創作の携帯小説サイトが全盛期で、熱意のある書き手たちが、自分だけの小さな箱庭を作っていた。そこには、BL小説はもちろん、ニッチな性癖(逸脱的であったり、社会常識を踏み越えていたりする)の作品がたくさん詰まっていた。今思えば、あの頃の携帯小説の書き手の多くは、みな自分のための物語が必要で、自分のために物語を書いていた。そしてそういう物語は、周りから押さえつけられていた(そして自分自身で自分に制限をかけることになるかもしれなかった)私の感情を、拾い上げてくれるものだったのだと思う。ありがとう、あの頃の書き手たち。

 さて、「好きなタイプは何か」という質問に上手く答えられなかった理由はもう一つあって、こちらの方が当時の感情を明確に覚えている。それは「将来どんな人を好きになるかなんて分かんないじゃん、てかそもそも誰のことも好きにならないかもしれないし」という考えである。だから「好きなタイプ」なんで、そんなの分からなくないか、ということである。

 ただ、当時の自分は、何度も繰り返される質問の矢を避ける返事を考える必要があって、色々考えた挙げ句、「えー、好きになった人がタイプだよ」とか答えていた。当時は大真面目に考えた結果だったけれど、今思うと、気取りすぎた答えでちょっと恥ずかしい気もする。

 いずれにしても、この時点で、自分が将来、男性を好きになるかもしれないし、女性を好きになるかもしれないし(当時はノンバイナリーという概念を知らなかった)、それは好きになる人次第だろう、といった具合で考えていたことは確かだ。そう考えると、結構昔から、パンセクシュアルの自分が生きていたのだと感じる。

 もっとも、まだこうしたことを考える道具を十分に持たなかった頃の自分の感情を、遡及して言葉にあてはめたり、断片的な出来事を繋いでみても、これでは何かが違う、ともやを掴むような感覚があるのも確かだ。あくまで、今振り返って考えると、こういうことだったのかもしれない、というだけではある。

 

 以上が、中学時代の自分の記憶だ。その後、色々と決定的な出会いや経験があって、そして実際にノンバイナリー・男性・女性に惹かれるという経験を経て、また日常の会話の中でなんとなく違和感を抱いたり、マイクロアグレッションを味わったり*2、そして自分のことをあれこれと考え、また人に話したりしているうちに、自分のアイデンティティ言語化できるようになってきた。

 ただ、以上の説明ではどうしても抜け落ちているところがある。それは最初に書いたように、「惹かれる」とか「恋愛的に魅力を感じる」とか言った時に、それが私にとってどういう感覚を示しているのか、ということである。結局のところ、どうもここの感覚が、私は一般的な感覚と異なっているらしい。ただ、これを書くには具体的なことを色々書かざるを得ないし、そもそもまだ自分できちんと言語化できていない。

 今回は、ここを詰めて書くのは諦めて、とりあえず、私の遠い昔の記憶と、実際の経験から、パンセクシュアルである自分(またパンセクシュアルとしての自分)を示せたことで満足しておく。

 

 もう少し掘り下げて考えたいことがあるので、明日に続く。

★前の記事→パンセクシュアルを名乗ること:前提 - 達而録
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(棋客)

*1:特に、バイセクシュアルという言葉には、これまで「バイセクシュアル」というアイデンティティで闘ってきた運動の歴史があり、その歴史を引き受ける意味で「バイセクシュアル」と名乗る人もいると思う。これについてはまた後日書く。

*2:雑に「彼女いる?」って訊かれるとか。

パンセクシュアルを名乗ること:前提

  1. (今回)パンセクシュアルを名乗ること:前提
  2. パンセクシュアルを名乗ること:過去
  3. パンセクシュアルを名乗ること:未来
  4. パンセクシュアルを名乗ること:文献・リンク集

 今回からしばらくの間、自分のアイデンティティについて言語化するための記事を書いていく。

 結論を先取りしておけば、自分はパンセクシュアルであり、そしてパンセクシュアルを名乗る理由は、第一には「経験的にそうだから」としか言えないのだけれども、同時に、未来の自分の可能性を否定しないための名乗りでもあるのではないか、ということを言いたいと考えている。

 

 で、まず今回は、本題に入る前に、なぜ私に(そして私たちに)名乗りが必要なのか、ということを考えてみる。なお、私は以下に出てくる専門用語についてはっきりした知見を持っているわけではなく、ざっくりした自分の理解で書いているので、色々と誤りがあるかもしれない。気になる点があればコメントください。

 前提として、いま我々が生きている社会(特に現代日本社会を想定)は、

  1. 人間は、女/男の二種類で、それは戸籍に割り振られた性と一致する。
  2. 女は男に、男は女に性的・恋愛的に魅かれる。
  3. 女と男は、生涯にわたって一対一の関係を築き、子供を産み育てる*1

 というシステム(戸籍・結婚など)によって運営されており、その中で権力を持っているのが、(特にシス・ヘテロの)男性である。であるから、まず女性、また周囲に女性とみなされる人は、たとえこのシステムに順応できる人であっても、日々抑圧を受けている。それは男女の賃金差や政治・企業の要職のジェンダーバランスのデータを見れば一目瞭然である。むろん教育現場での男女の扱われ方の差もいまだ改善されていない。

 次に、そもそもこのシステムから何らかの形で逸脱している人も、多大な抑圧を受けることになる。特に、このシステムでは端から想定されていない、LGBTQIA+といった性的少数者は、制度上の明らかな差別のみならず、日常生活の中で受ける無自覚な差別行為(マイクロアグレッション)にも苦しむことになる。

 たとえば、自分の性と、証明書に記載された性や周りから扱われる性のあり方が異なる場合、日常生活を送る中で多大な障害にぶつかる。学校・会社・公共施設・医療など、性別で二つに分けられた空間がいかに多いか、また人々が外見から性別を判断され、そしてその判断された性別から内面までもを判断されることがいかに多いかを考えると、トランスジェンダーやノンバイナリーが持たされる負担の大きさが分かると思う。

 また、特定のパートナーができて結婚制度を使いたくても、使えない人がいる。保険や家の賃貸借などでも差別に遭う。そして、異性愛ではなくとも、「人と恋愛すること」を当然視する向きが強すぎて、性愛・恋愛感情を持たない人や、人以外に性愛的に魅かれる人は、社会で置き去りにされる。残酷なことに、性的少数者にとっては、現実世界のみならず、ドラマや小説・ゲームといったフィクションの世界でさえ、必ずしも安心できる逃げ場にはならない。大抵の場合、そこも現実とは大して変わらない差別と偏見に満ちた場所だからだ。

 加えて言うと、必ずしも自分を性的少数者であると考えている人ではなくても、学校や会社などの場で「女/男らしさ」を求められたり、家族に結婚を求められたり、離婚や浮気をするとやたら否定的に見られたり、日常のさまざまな場面で、このシステムに生きづらさを感じる人は多いだろう。また、このシステムがセックスワーク差別をはじめとする職業差別に繋がることもある。

 なお、念のために書いておくと、私は「①~③がシステムとして機能し人々を抑圧すること」を批判しているのであって、「①~③のような生き方を選ぶ個人」を否定しているわけではない。他人に押し付けないのなら、好き勝手に生きればよいのであって、①~③の生き方が自分にとって自然というのであれば、その人生は尊重されるべきである。(ただ、そのことがたまたま「自然」であったためにシステムから優遇される自身の特権性は理解しておかなければならない。)

 そしてもう一つ重要なのは、セクシュアリティ以外の面で抑圧を受ける属性の人々が、このシステムと交差し、より多大な抑圧を受けるということである。特に、戸籍と分かちがたく結びついた、天皇制・国民国家としての日本というシステムの中で、外国人や、外見から外国人と判断される人は、就労などさまざまな面で差別に遭う。ここ一年の例でも、入管法改悪・永住権取り消し法案の起草といった制度面の差別や、在日朝鮮人差別(朝鮮学校が無償化の範囲外にされる等)・アイヌ差別(ウポポイへのヘイトスピーチ等)・沖縄人差別(基地の押し付け等)・クルド人へのヘイトスピーチなど、レイシズムは加速している。

 また、「健常者」中心の社会設計の中で、社会によって障害を負わされた人びとは、さまざまなサービスへのアクセスが遮断され、生活に大きな制約を受ける。最近は車いすユーザーが映画館で断られたという話に対して、心無い言葉が浴びせられていたが、車いすに乗っていると映画一本すら満足に見られない社会を何とかしなければならないのである。

 こうした差別とセクシュアリティの差別は同じ構造を持っていて、マジョリティによって設計された(特にネオリベラリズム的な)システムによってマイノリティが排除される、ということが起こっている。そして、これらの差別に交差する属性を持つ人が、より多大な差別を受けることになる。

 

 さて、こうした社会の規範や設計に、個人一人で対抗するのはとても難しいが、同じ経験のある人や、その状況に心を痛めている人とつながって、社会に変化を働きかけることは、幾分かハードルが下がる(とはいえ難しいことには変わりがなく、そのために特権を持つ人々が一緒に闘わないといけないのだが)。また、同じ経験がある人とつながることで、自分の苦しみがケアされるという面もある。

 そうした時に、一つの「名乗り」によって旗を掲げて、存在を示すことは、人々の連帯を可能にするという点で大きな意味を持っている。つまり、「名乗り」は闘うための武器の一つであるということである。

 アイデンティティがどういう闘いの意味を持つのか、ものすごく単純化して乱暴にまとめると、

 ①「人間は女/男の二種類で、戸籍に割り振られた性と一致する」という想定に対しては、女/男のどちらにも当てはまらないノンバイナリーの闘いや、戸籍や外見の判断と性が一致しないトランスジェンダーやノンバイナリーによる闘いがある。

 ②「女は男に、男は女に性的に魅かれる」という想定に対しては、まずこの異性愛中心主義に対する、同性愛者やバイセクシュアル・パンセクシュアルなどによる闘いがある。そして、その前提にある「(人は誰しも他の人に)性的・恋愛的に魅かれる」という想定(対人性愛主義)に対する、アセクシュアルやアロマンティック、またフィクトセクシュアルなどによる闘いがある。

 ③「女/男が生涯にわたって一対一の関係を築く」という想定に対しては、同性婚を求める闘いや、複数人とパートナー関係を築くポリアモリーの闘い、また同じくアセクシュアル等の闘いなどがある。

 これは雑にまとめすぎているし、挙げられていない他の名乗りもたくさんあることは断っておく。また、これらの枠組みが交差することもあり、たとえばトランスジェンダーレズビアンという人、ノンバイナリーでバイセクシャルという人、アセクシュアルでポリアモリーを実践する人など、その人それぞれの闘いと生活がある。そして、ここに先述した他の属性が交差することもある。

 究極的には、こういう名乗りの言葉が無くても、誰もが同じ扱いをされる社会が到来してほしい。そもそも、わざわざ言葉にして、仲間を集めて、闘わないといけない不平等な社会に欠陥があるとしか言いようがない。また「名乗り」にも危険性があり、名乗りが特定のイメージと結びついた場合に、それが必ずしも自分の実感とは一致しないのに、名乗りが自分を縛ってしまう面もある。そういう意味でも、理念的には、わざわざ名乗らなくてよい社会の到来が望まれている、と言える。

 しかし、あらゆる差異が権力構造に変換されてしまうのは社会の常でもあって、名乗りの言葉が不要になる社会(=排除される人・差別される人がいなくなる社会)は永遠に来ない、のもしれない。実際のところ、ほとんどの場合、「この社会では誰も差別されていない」などと平気で言ってしまえる人は、差別されている人々のことが意識に上がっていない(または意図的に無視している)だけでしかないだろう。

 ただ、こういう前提はありながらも、誰もが「差別に反対する」と当たり前に言える社会、差別される人がいないか常にすべての人が自省できる社会、また、せめて差別的な制度のない社会(これは最低限だ)は、実現可能だと信じているし、そういう社会をみんなで作っていかなければならないと思う。

 だから、今の世の中において、私が名乗ることには大きな意味がある。何を言われるか分からない中で、わざわざ全世界に向けてパンセクシュアルであると私が表明する意味は、まさにここにある。このブログの読者の方々は、「中国古典の研究者」、また「Wikipediaの編集者」(ウィキペディアン)、あるいは「読書家」(?)、「変わり者」(?)、「マメな人」(?)などとして筆者のことを見ていると思うのだけれど、そこに、パンセクシュアルとしての筆者という一面を加えてもらえるとありがたい。

 

 以上で、名乗る上での前提(「なんでわざわざ名乗るの?」という疑問)を説明することはできた(答え:「こんな社会だから」)として、私がパンセクシュアルであるということについて、明日の記事で具体的に書いていく。

★次の記事→パンセクシュアルを名乗ること:過去 - 達而録

(棋客)

*1:今の日本社会では、子供を産み育てるハードルが高すぎて、現実的な意味ではこの規範は成立しにくくなっているかもしれないが、人々を縛る観念的なルールとしては、いまなお幅を利かせているだろう。

藤高和輝「パスの現象学―トランスジェンダーと「眼差し」の問題」

 今回は、藤高和輝「パスの現象学トランスジェンダーと「眼差し」の問題」『フェミニスト現象学』ナカニシヤ出版、2023)を取り上げます。「現象学」が冠される本を読むのは初めてでしたが、専門知識が無くても読めるように工夫されていて、私にも分かりやすく読むことができました。この本はさまざまな著者による論文集ですが、今回は藤高さんの論文を読みます。

 この論文は、トランスジェンダー「パス」に焦点を当てて、他人にジェンダーを判断されるという営為について考察するものです。

 「パス」とは、出生時に割り当てられた性別が、他者に読み解かれないようにする実践を指します。たとえば、トランス女性が周りから女性として認識されていれば、それは「パス」したということになります。

 以下、論文の内容メモです。

 

p.100-101

 私たちは、ジェンダー化した身体に向けられる眼差しに日々さらされているし、また他者のジェンダーを見た目から推し量る行為を日常的に行っている。たとえば、道ですれ違う人の性別をほとんど無意識に判別する。その時には、髪型や服装、仕草から瞬時に判断するのであって、その人にアイデンティティを問い質したり、性器を確認したりするわけではない。

 鶴田幸恵*1は、こうした「他者の性別を見る」実践を、「外見以上のものを見る」実践と呼ぶ。私たちが、他者を女/男と見る時、単に外見を見ているのではなく、その人がヴァギナ/ペニスを持ち、女/男としてこれまで生きてきた歴史がある、と想定する。つまり、外見から、外見以上の情報を引き出している。

※この議論は、性別は身体の形で決定されるという考え方に対する批判としてもはたらく。実生活においていちいちそれを見て判断していないでしょ、ということ。

 

p.103-104

 よって、性別とは、眼差しによって遡及的に「一つの推理」によって構成されるものである。

 この社会を生きる大多数の人は、性別を自然的所与のものとしている。しかし、セックスの本質として参照される性器さえ、厳密に生物学的には二分できないという事実からも明白な通り、セックスとは理念的な抽象物でしかない。

 バトラーの『ジェンダー・トラブル』によれば、ジェンダー規範とは、セックス・ジェンダーセクシュアリティの間に「一貫性」を付与する「理解可能性の規範」である。たとえば、オスに生まれれば(=セックス)、社会的な男らしさを身につけ(=ジェンダー)、性愛の対象として女性を選択する(セクシュアリティ)という基本的な一貫性を付与される。そして、これから逸脱する場合、奇妙な代物・おぞましいものとして排除される。

 このような営為が一般化されている現代社会の中では、「パス」していないトランスジェンダーは、他者の視線が「地獄」として突き刺さり、おぞましいものとして排除される。これはバトラーのいう「理解可能性の規範」に乗っていないと、外見から判断されるため。その結果、トランスジェンダーが必要以上に「パス」を追求することもある。本論文では、そのことがトランスの実体験とともに紹介されている。

※『ジェンダー・トラブル』については、このブログで読書ノートを書いたことがある。以下参照。

 

p.107-108

 結局、私たちは誰も、他者のまなざしをコントロールすることができない。トランスジェンダーは、自らの身体を他者が勝手に読み解く行為に絶えずさらされることによって、自分の身体に「困らされる」ことになる。しかし、他者の眼差しが常に「地獄」ではない、ということが本論文の最後で述べられる。

 他者の眼差しと自分の関係は、圧倒的な偶然性と受動性にさらされるものではあるが、「私」がそれによって切り刻まれ、閉じ込められ、圧倒されるだけの負の経験ではない。

 このことを論じているのが古怒田聖人/いりや*2である。いりやは、自己のジェンダー表現と、それに対する他者の眼差しが出会う契機を、「セッション」という言葉で捉えようとする。

 「セッション」という言葉は、①他者の眼差しは私にはコントロールできず、一方的に切り取られるものであることを示す。②それと同時に、自身の身体の感覚に親和的な眼差しとの「セッション」の可能性を開いている。

 いりやは、自身のモデルとしての経験から語っている。モデルは、カメラによって取られるという意味で、他者によって一方的に自分を切り取られる行為ではあるが、しかし、そのために自分の身体と丁寧に交渉してくれる時間や、カメラマンの細かな指示やメイク直しのプロセスがあり、その過程を経て自分という作品を生み出す「セッション」でもある。藤高は、この例としてトランスにとっての美容室という空間を挙げている。

 

※以前このブログで取り上げた映画『ノー・オーディナリー・マン』では、主人公のビリー・ティプトンの生き様を、ジャズの即興演奏に喩えるコメントが出てくる。これはいりやのいう「セッション」と重なるように思う。また、本映画では、「パス」とは何かと問われたトランスジェンダーが、「パス度ってなんですか?普通度?そんなのごめんですね」という痛快な言葉を残している。以下、記事を共有。

(棋客)

*1:性同一性障害エスノグラフィー―性現象の社会学』ハーベスト社、2009

*2:「ままならない身体―ジェンダークィアのボクが生きてきたこの身体について」『現代思想』49-13, 2021

吉田寮現棟・食堂明渡請求訴訟のゆくえ

 一か月ほどブログをお休みしている間に、色々と動きがありましたので、共有しておきます。吉田寮のことについては、これまで本ブログでもたびたび言及してきました→吉田寮 カテゴリーの記事一覧 - 達而録

 以下、資料を列挙する形式で書いていきます。

 

 朝日新聞の社説にも載っています。

 

 また、毎日新聞の連続記事は、寮生への丁寧な取材に基づいていて、寮の暮らしがよく伝わるものになっています。

 

 また、最近、受験生向けの吉田寮紹介パンフレットが作られました。読み応えのある記事が多いので、ぜひ読んでみて下さい。

 

 寮自治会側の頑張りによって、大学側に訴訟を取り下げ、話し合いを再開する絶好の機会が与えられたわけですが、京大執行部はこれもみすみす踏み倒してしまいました。京大の教職員の中には、私がお世話になった人もたくさんいるのですが、悲しい思い出に塗り替えられつつあります。今からでも遅くはないですので、一緒に動いてほしいです。

 

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 さて、少し休んでいるうちに今月分の記事を書けたので、来週・再来週は更新できます。その後は分かりません。

(棋客)

多忙につき…

 心身ともに余裕がなく、しばらくブログを更新できなさそうです。

 のんびりお待ちください。

 もしかしたら、少し形態を変えて、考えたことをつらつらと書き綴るタイプのブログとして再出発するかもしれません。

 ではまた。

(棋客)