達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

アセクシュアル・アロマンティック入門、物語化批判の哲学など

 「ちゃんと感想を書きたい」と思いながらも積み残している本がたくさんある。本当は丁寧に細かく感想を書きたいのだが、そこにこだわってなかなか書けないよりは、ひとまず雑でも何か書いた方がいいかということで、それほど読み返さず、ざっと感想を書いてみた。

 

■松浦優『アセクシュアル・アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』

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 タイトル通り、アセク・アロマについての初歩的な説明をした本で、とても読みやすくまとめられている。「アセク・アロマの人についての説明」だけが書かれるのではなくて、そうした名づけが必要にさせられる社会の状況を問い直す姿勢が一貫しており、多くの方に推薦したい本だと思う。もっと広く、フェミニズムクィア・インターセクショナリティの入門書としても推薦されてもよいと思う。

 (私が正直これまでよく分かっていなかった)フーコーの学説の解説も分かりやすい。また、婚姻制度への問い直しは当然として、障害者差別・外国人差別との重なり、そしてこれらと資本主義という経済システムの結びつきなども、分かりやすく説明されている。包摂的なアプローチを明確に否定し、既存の枠組みへの問いかけという立場を鮮明にしていて、頷きながら読んだ。

 なお、私の雑な印象だが、松浦さんは、これまでミソジニックな文脈で使われがちだった言葉や概念を、フェミニズムの文脈に取り返すことを意識されているように感じている。つまり、そういう言葉を使う界隈(≒クィアフェミニズムを冷笑する傾向にある界隈)に向けて、「いや、本当は味方なんだよ、連帯できるよ」というメッセージを発しているようなイメージがある(本書なら「非モテ」とか)。的外れだったら申し訳ないのだが、その試みには勝手に心強さを覚えている。

 なお、日本で婚姻制度批判をするのに、その象徴の最たる例である天皇制や戸籍制度にあまり言及がないのは、ちょっと気になるところだ。天皇制を解体せずに、婚姻規範(だけではなくて異性愛規範も男女二元論も性愛中心主義も)を解体することは不可能ではないか。また、どうしても日本の話か欧米の話かになりがちだという点も気になる*1。この二点は、本書の限界というより、この分野が今抱える課題と言うべきかもしれない。

 

■難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』

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 これも非常に読みやすい本だった。私が日常生活の中で感じているものの、うまく言葉にできていなかった自分の微妙な違和感が、うまく説明されている感じがした。本書を読むことで、遊ぶことや、消費することへの向き合い方が変わる人もいるだろう。

 たとえば、「考察」界隈と「陰謀論」の距離の近さ。どちらも「ハッとする」快感を与えてくれて、世界の正解が「ただ一つ」になる。しかし、世界は本来もっと複雑なはずだ。これまで「考察」と「批評」って違うよなあと思いつつ、あまり言語化できていなかった私にとって、とても納得のいく説明だった。

 松浦本もそうだし、本書もそうなのだが、私は東浩紀Twitter上での発言があまりに酷すぎると感じているので、東の論考が引用されていると、それで一回ダメージを食らってしまう。もっとも松浦本なら、専門が近すぎて先行研究として言及せざるを得ないところがあると思われるし、こうした本で引用すること自体が今の東に対するカウンターとして機能する面もあるだろうから、まだ受け入れられるのだが、本書ならわざわざ引用しなくてもいいのでは、とか乱暴なことを思ってしまう。この意見はあまりに「感情的」だろうか…?

 

■及川祥平・川松あかり・辻本侑生編著『生きづらさの民俗学

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 「生きづらさ」という言葉をキーワードにして、多様な人々の多様な体験をフィールドワークを通して調査し、一つの論集としてまとめたもの。時代もテーマもばらばらだが、そこにある「生きづらさ」が浮かび上がってくる構成になっている。

 民俗学という学問のあり方や、過去の研究のされ方について、大きくとらえなおして、問題提起するところから始まっていて読み応えがあった。また、最後の方に、フィールドワークに向かうための資料調査の軌跡がまとめられた論考が入っていて、特に面白く読んだ。

 

■水野博太『「支那哲学」の誕生:東京大学と漢学の近代史』

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 自分の専門に近い分野からも一つ。

 タイトルと副題が非常に面白そうな本で、実際、これまで意外と取り上げてこられなかった分野を切り拓いた研究書として、教えられることはたくさんあった。特に、私が京都で学生時代を過ごしたということもあって、戦前期の東大の漢文科の様子については疎いところが多いからだ。

 と言いつつ、私もさして京都のことに詳しいわけでもない。たとえば、戦前の京大中哲の教授で、陽明学から天皇崇拝へと傾斜し、戦後に公職追放に遭った高瀬武次郎のことなど、詳しく調べておくべきだと思いながら、あまり知らないままでいる。本書を読んで、そうした課題を思い出す刺激になった。

 ただ本書は、(少なくとも私にとっては)やや読みにくい本で、全体をきちんと理解できたとは正直言い難いのが現状だ。内容についての詳しい感想は、またの機会にしたい。

 その代わりに、私は本書の書評会にもお伺いしており、そこで印象に残っている話があるので、触れておきたい(EAA 読書会・書評会 2025年Sセメスター 東アジア思想史読書会 公開読書会・書評会 | イベント | 東アジア藝文書院 | 東京大学)。

 水野さんによれば、本書は、ファシズムを準備した権威的な学者たちという色眼鏡で見られてしまう傾向にある戦前の東大の中国古典研究者について、一旦こうしたフィルターを外して、当時の人々の行動や意図を時代に照らして見ていこう、という意図があると言う。私としても、確かにこういう研究はとても大切だと思う。しかし、こうした研究は、「当時の学者は悪くなかった」「日本は悪くなかった」的な議論と誤解されやすく、「バランスを取るのが難しい」という話を水野さんがされていた。

 この意見に対する私の率直な感想は、その「バランスを取る」ことは、全然難しくないのでは、というものだ。というのも、自分の政治的スタンスを、本文中もしくは「あとがき」などでちゃんと宣言しておけば、その「バランス」は取れると思うからだ(仮に誤読者が現れたとしても、筆者が明言しておけば、第三者でも容易に反論できるようになるだろう)。ただこれは、私にとって難しいことではないというだけで、普通は「難しいこと」なのかもしれない。

 でも、それを避けていると、結局、(ファシズムに暗黙裡に加担した)戦前の学者と同じになってしまうのではないのか。これは水野さん個人に対する意見というより、もっと広く中国学の学者に向けて言いたいこと、という話になってくるが…。

 


 感想を書きたいと思っていた本はもっと色々あったはずなのだが、ここで力尽きてしまった。今日はここまで。

 ちなみにこの記事は、久々にAmazonアフィリエイトを使っています。あまりAmazonには加担したくないとは思いつつ、雀の涙ほどのアフィリエイトさえ欲しいと感じさせられている経済状況ですので、ご容赦ください。

(棋客)

*1:クィア理論を欧米中心に見ることの問題点について、以前書いたことがある(Petrus Liu “Queer Marxism in Two Chinas”~クィア理論・中国・マルクス主義の絡み合い - 達而録)。