達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

何春蕤「左翼からクィアへ:米国同性愛運動のクィア化」を読む

 今回は、前回触れた何春蕤「左翼からクィアへ:米国同性愛運動のクィア化」を読んでみる。

 なお、原題は〈從左翼到酷異:美國同性戀運動的酷兒化〉である。ちなみに「酷異」も「酷兒」も「queer」の翻訳のはずだが、なぜタイトルで二種の訳語が同時に使われているのかは、よく分からない*1

 この論文は、国立中央大学の性/別研究所*2の「何春蕤論述庫」にて、全文がオンライン上で公開されている。

 上のリンクの冒頭に付された言葉によれば、この論文は、何春蕤が『豪爽女人』(1994年)の出版などで台湾の性解放的フェミニズム運動に火をつけた後、「クィア」という言葉がサブカルチャー的な色彩を帯びて流行し始めた際に、クィアの理論や運動が主流に取り込まれないようにするために書かれた「三部作」の一つである。

 三部作は、以下の三つである。

  1. 「性革命:マルクス主義的観点から見た米国百年のセクシュアリティ史」(原題:〈性革命:一個馬克思主義觀點的美國百年性史〉、《性/別研究的新視野:第一屆四性研討會論文集》、何春蕤編、元尊文化、1997年)
  2. 「ポルノと女/性の能動的な主体」(原題:〈色情與女/性能動主體〉、《中外文學》第25卷第4期、1996年)
  3. 「左翼からクィアへ:米国同性愛運動のクィア化」(原題:〈從左翼到酷異:美國同性戀運動的酷兒化〉、《性/別研究》3、4期合刊、「酷兒:運動與理論專號」1998年)

 以下、まずは本論文の冒頭から第一章の途中までを私が翻訳したものを、そのまま引用する。次に、その続きの内容を要約して示し、最後に結論の翻訳をそのまま引用する。注釈は省略した。下線の強調と、〔〕の補いは私によるものである(太字の強調は原文のもの)。

本文

 「ひとつの亡霊が、米国のアカデミア―左派の最後の避難所―をさまよっている。それこそが、クィア理論という亡霊である。」―David Horowitz

 引用中のHorowitzの見解は、クィア理論と左翼に対する軽蔑を含んでいるものの、この一段はかえってクィア現象と左翼の間のある種の連結を指し示している。

 クィア理論の学者Michael Warnerは、名著『Fear of a Queer Planet』のイントロダクションにおいて、多くの研究者がクィア・ポリティクスのナショナルな含意に注目していると述べる。なぜなら、「クィア・ネーション(Queer Nation)」と新たなクィア・アクティヴィズムが採用する戦術と目標は、「市民アイデンティティや国家アイデンティティが推進する疎外状態への応答」として部分的に理解できるからだ(xx)。言い換えれば、現在の政治領域での、群衆を動員し、群衆を分断するナショナリズム的・市民的言説に直面する中で、クィアの政治戦略は、主流の強権によって疎外された弱者グループを連携させ、抵抗のネットワークを形成しようとする。そしてこの連携やそれが作った抵抗のネットワークは、必然的に文化社会の隅々にまで浸透することになる。「なぜなら、現代、性制度の秩序は数え切れないほど多くの社会制度の中にすでに深く根ざしており、また、もっともありふれて、もっとも標準的な認知の物語にまで根差しているからだ。したがって、クィアの闘争は単なる包摂の獲得、あるいは平等の地位の獲得だけにはとどまらず、そうした制度や物語そのものに根本から挑戦するものである」(Warner xiii)。この観点から見ると、クィア・ポリティクスは、ただナショナリズム的言説や市民的言説へのアンチテーゼであるばかりでなく、反社会的でもある。それは「国家制度、政治的プロセス、メディア、教育、警察、法律」に対してますます信頼を失っており、「社会・文化規範、ジェンダー観、生殖的セクシュアリティ、家族」という概念に疑義を呈し(Smith 280)、さらには「一見すると性とはあまり関係がないように見える方法を通して、我々がいかにして常態化された性に抗うかを考える必要がある」(Warner xiv)。

 この「クィア・ポリティクス」に対する定義の説明では、特定の性的アイデンティティの色合いが前面に出ていない。より注目されるのは、かえってそれが左翼政治の色彩に満ちていることである。これは、クィア理論家個人の現在の政治的立場を示しているのだろうか? それとも、このようなクィアの見方には、より広範で、より深い関わりがあるのだろうか? Lisa Powerは、1970年代以降の様々な社会解放運動に共通する二つの顕著な特徴として、ためらうことなく自分を肯定する姿勢(assertiveness)と、アイデンティティ・ポリティクスの限界を超えて他の運動と積極的につながろうとする姿勢を指摘するが(Power 3)、これはまさに多くの研究者が「クィア化」の重要な徴候として描写するものである。歴史家もまた、この二つの特徴が、同じ時代に並行して展開された他の社会運動(たとえば、黒人公民権運動、女性解放運動、性解放運動)の発展と直接的に関連しており、相互に導き合い、学び合ってきたと認めている(Hekma et al. 2)。ただ、米国の同性愛運動について言うと、この二つの特徴はいったいどのような歴史的文脈の中でクィア化の歴史の兆しとして形成されたのだろうか。本稿では、米国同性愛運動の「クィア化」の痕跡が特定の歴史過程にあり、かつ早くも1950年代にはすでに現れていたこと、そしてそれだけではなく、「クィア化」のこの二つの特徴が深くラディカルな政治の文脈を確かに持っていることを明らかにしたい。明確に言えば、私は同性愛運動における「クィア化」の趨勢と、米国の左翼思想との間の密接な関係を明らかにしたい。

公開された秘密──同性愛と共産党

 あらゆる西洋の同性愛の歴史的叙述の中で、1950年代に米国の上院議員Joseph McCarthyらが、次第に広がる反共感情を利用し、「下院非米活動委員会(House Un-American Activities Committee)」を組織して、政治的異分子や同性愛者に対して大規模な迫害を行ったということは、よく知られた史実である。しかし、この一連の政治的迫害が、なぜ同性愛者までもを迫害の対象としてみなしたのかということは、考察に値する問題だ。まさか同性愛と政治的異議とが、その歴史的な時点において、何か特別な関係があったのだろうか? またこの関係は、同性愛運動の形態や発展に、どのような構造を形成したのだろうか?

 この歴史を研究する学者は、米国が第二次世界大戦に広範に関与する時に、国内政策においても従来の社会的偏見を打破する多くの政策や方法を取らざるを得なかったと指摘する。例えば、女性や黒人が初めて積極的に労働生産のプロセスに参加する機会を得たことで、その経済力や社会参加が拡大し、したがって性別秩序や人種秩序に重大な調整が生じた。1945年に戦争は終結したものの、戦後における数多くの地域(中国を含む)の急速な共産化や、ソ連による東欧への拡大は、米国を不安にさせ、国家安全と社会秩序が米国国内の最重要の課題になった。学者が指摘するのは、この緊張感の中で、同性愛は、ジェンダーと国民が集合する時の動力として凝集し、社会のジェンダー秩序を乱す存在と見なされ、さらには政治象徴的な面で国力(男性的な力)の弱体化を表すものとされた(Adam 60–62)。そのため、同性愛者は、戦後米国の国民の造営の中で、排除される重要な目標とされた。政府のレトリックはこうだ。同性愛者は道徳感に乏しく(つまり、個人の性道徳は、直接的に一般的な道徳に直接拡大できるとされ)、またその不名誉な性行為のために恐喝されやすく、国家機密を漏らすかもしれず、これは国家安全保障上のリスク(security risk)であり、よって職務から排除しなければならない(Adam 62;Duberman 183)。実際、一切の「腐敗し、堕落し、社会の常規を動揺させる」行為(同性愛とポルノを含む)は、すべて当時の政府の関心の対象となった(D’Emilio & Freedman 282)。統計が示しているのは、1947年~1950年の間に、軍隊や政府機関から約5000人の同性愛の疑いがある職員が解雇されたということだ(Faderman, Odd Girls 140)。同時に、米国が朝鮮戦争への介入を始めた重要な時期に、連邦政府は「忠誠審査委員会」の設立を決定し、連邦職員といわゆる「転覆分子」との交際関係を調査した。この関係には、共産党員との付き合い、反米雑誌や書籍の購読、1948年の左派大統領候補ヘンリー・ウォレス(進歩党)への支持、さらには日常生活における黒人への友好的な態度、あるいは奇抜な服装さえも含まれた(Adam 61)。その後のマッカーサーの白色恐怖〔赤狩りレッドパージ〕の運用モデルは、こうした具体的措置のうえに構築された。さらに、アイゼンハワー大統領は、白色恐怖の絶頂期である1953年に、以後の政府の採用手続きにおいて申請者の性的志向を調査するよう命じた(D’Emilio & Freedman 293)。このような風潮になると、同性愛に対する好意的な学術研究も逃れることはできず、1954年には、ロックフェラー財団が、キンゼイ研究所〔性・性差・再生産のためのキンゼイ研究所、The Kinsey Institute for Research in Sex, Gender and Reproduction〕が思想調査を受けていると知ると、直ちに研究資金の助成を打ち切った(Segal, Straight 88)。政治の雰囲気が緊縮すると、社会全体の不安感がさらに悪化し、同性愛に対してより不利な社会環境を生み出すことになった。

 この歴史的記述が浮かび上がらせるのは、同性愛者が、白色恐怖の時代に排除と粛清の対象とされたのは、右派政権の陰謀によって無罪の罪をでっちあげられたのであり、同性愛は政治的抑圧の下での無実の被害者であるということだ。当然、このような描写は、同性愛者の不公平な境遇に対する同情や支持を得る助けにはなるかもしれない。しかし同時に、この見方は、1950年代以降の同性愛運動の溌剌とした発展を、単純な「抑圧への反発」というモデルで解釈する傾向にあり、それによって、同性愛運動の形成の過程に存在する複雑な側面を抹消し、性的指向を他の社会的要因のもつれの中から切り離してしまう。本稿ではむしろ、1950年代における同性愛アイデンティティの「組織化」と「運動化」は、当時のよりラディカルな同性愛者自身の左翼政治的な異議の立場―ただの性的アイデンティティにとどまらない―と緊密に結びついていたと指摘したい。実際、最も明確な例から言えば、1951年にロサンゼルスで最初に結成された同性愛の地下組織「マタシン協会(The Mattachine)」が、同性愛者の自己認識とアイデンティティを推進する五人の同性愛者によって、このブレイクスルー―同性愛の問題をラディカルな社会運動の議題の一つとみなすだけではなく、同性愛というアイデンティティが政治的異議を動員する軸になり得ると認識すること―に至った要因は、この五名の同性愛者自身が(当時厳しく政治的に迫害されていた)共産党員であり、この立場が当時の雰囲気では政治的圧迫を含意していたことによる重要な啓発があった。さらに、彼らが同性愛者のアイデンティティを推進する時に展開された組織力や闘争構想は、以前の左翼政治的な異議の抗争の経験における蓄積から大きな力を得ていた。言い換えれば、米国の同性愛運動の形成は、その初期メンバーのラディカルな政治異議のアイデンティティと密接に結びついており、これが後の性的アイデンティティ運動が徐々に動員を発達させたことにも深い影響を与えた。

 もちろん、これは性的指向アイデンティティとある種の左翼的な政治立場との間に本質的な正の相関があるというわけではない。実際、当時スターリン主義に影響を受けていた米国の共産党組織や大部分の毛沢東主義派の団体は、同性愛に対して決して友好的ではなかった。教条的な左翼の立場は、同性愛は小ブルジョア的な意識形態であり、個人的な手段で社会問題を解決しようとする幻想にすぎず、ただ失意と挫折をもたらすものと見なされた(Thorstad 323)。このような党内の教条主義的な圧力のもとで、左翼の同性愛者は自らの性的アイデンティティをカミングアウトすることはなかった。マタシン協会の創設者で、精神的リーダーのHenry Hayを例とすると、彼は若い頃にラディカルな劇団に参加し、ストライキや示威行動の場で政治的な演劇パフォーマンスを行って人々の心を動かし、1934年に米国共産党に入党したが、当時の共産党はいわゆる「性のずれ」(同性愛)に対して一般人と同様に譴責する態度を取っていた。したがって、彼は自分の性的アイデンティティと政治的アイデンティティを結びつけることを考えたことはなかったし、彼の政治活動に性的マイノリティとしての闘争を取り込むことも、彼自身の性的アイデンティティの中に左翼の視座を組み込むこともなかった。1938年、Hayは女性の党員と結婚し、長く14年間にも渡る、アイデンティティのカミングアウトを回避する人生が始まった(D’Emilio 19–20)。このクローゼットの状態は、1948年に共産党がヘンリー・ウォレスを大統領候補に擁立し、トルーマン政権の冷戦政策に対抗した時を待って、ようやく新たな政治的動員の活動の中で性的アイデンティティのカミングアウトの契機が湧き上がった。

 ラディカルな政治への動員活動は、しばしば新しい人との接触と協力を生み出し、それによって新たな視野を開放する。米国の同性愛アイデンティティは、まさに左翼政治の激化する動揺の雰囲気の中で表面化した。1948年8月、Hayが進歩的な知識人による小さなパーティーに参加した際、たまたまその場にいた全員が同性愛者であることに気づき、会話がウォレスの選挙活動に及んだとき、Hayと周囲の何人かは冗談半分に、ウォレスの公約に性的プライバシーの権利の条項を加える方法を考え始めた。これは、非共産党員の同性愛者のウォレスへの支持を動員するためであった(D’Emilio 20;Teal 27)。この冗談めいた語らいから生まれたグループ(たわむれに「Bachelors-for-Wallace」と呼ばれた)は、具体的な発展には至らなかったが、より広範な進歩的政治の可能性を模索するという長期的な目標の中で、左翼人士は初めて、概念上の「ラディカルな政治的アイデンティティ」の枠組みから出発して、「周縁的アイデンティティ」が出現し機能し得ると考え、その結果、性的アイデンティティが初めて「運動」としての異義の内実を帯び、同性愛者を組織することに発展し、同性愛に関する政治的課題を推進する社会的要因として認識されるようになった。その後すぐに、Hayは左翼の「人民教育センター」で音楽を教える仕事をしていたことで、Chuck RowlandとBob Hullと知り合い、三人が同じく同性愛者というだけではなく、同時に共産党員でもあったことに気が付いた。のちに、ラディカルな社会意識を持つダンサーのRudi Gernreich、第二次大戦中の日系米国人の権利擁護活動で知られるDale Jenningsともまた知り合った。この五人は、政治上でも性的アイデンティティ上でも二重の「同志」であり、なおかつ、運動組織の豊富な経験を持っていた。仕事や関心分野や相似から頻繁に顔を合わせるうちに、1950年秋のある午後、秘密結社マタシン協会を設立した。

 この地下結社は、あらゆる角度から見て左翼の伝統に忠実な組織であった。階層に厳密な権力構造があるだけでなく、積極的に左派の社会分析を取り入れ、同性愛者を「抑圧された文化的少数者」とみなし、同性愛者自身の集団的な行動によってこそ、ようやく社会構造の中の同性愛の排除や迫害を変革できると考えた(D’Emilio 23–24;Weeks 197)。具体的な組織においても、この小規模グループは左翼の組織発展のモデルに従い、数多くの地域で読書会や討論グループを少しずつ発展させることで、他の「同志」の加入を引き寄せていった。さらに、その左翼的な淵源によって、マタシン協会は開始当初から労働組合や他の少数派グループと密接に連携した。Hayが結成以前の2年間をかけて執筆した設立趣意書には、米国のファシズム傾向に積極的に対抗しなければならないということ、そして他のコミュニティと連携し、全世界のあらゆる少数民族(同性愛を含む)の自由を求めて闘うべきということが述べられている(Teal 27)。こうした、同性愛を「少数民族」のひとつと見なし、さらにより広範な弱者コミュニティと運命を共にする存在と捉える見解は、性的アイデンティティがまだカミングアウトされず、孤立や隠蔽の中でもがいていた時代において出現したという点で、まさに左翼の思考に対する大きな拡張であった。

(以上、引用終わり)

続きの部分の要約

マタシン協会のその後

 ここからマタシン協会は徐々に勢力を拡大し、政治的要求を掲げて闘うことも増え始める。しかし、組織が拡大し、政府当局による弾圧がより強くなる中で、1953年の会期でリーダーが変更されると、一転して左翼的な「同志」は「疑わしい存在」として貶められ、「同性愛者が政治的疑念を受けないよう、共産党の浸透から守る」方向へとシフトする。つまりマタシン協会は結局「反共」団体になったということだ。(現代になると、マタシン協会はむしろ「保守的な白人ゲイ団体」の代表例として言及されることも多いようだ。)

 この転換期において、運動メンバーがどのような選択を迫られたかということについての何春蕤の分析は、鋭くて生々しい。最後、何春蕤は、マタシン協会が初期の「同志」の痕跡を消し去ろうとした結果、彼らが切り開いた言説資源と新たな闘争精神―構造分析、積極的抗争、自尊心、集団行動、連携と連帯―を抑圧するようになった、とまとめている。

1960年代の闘争

 次に何春蕤は、1960年代の闘争から、ストーンウォールの反乱に至るまでの流れにおいて、左翼的な言説や運動、闘争手段が同性愛運動とどのように関係しているかを説明する。黒人民権運動、ヒッピー学生、労働運動、反戦デモなど、さまざまな周縁的社会運動がスティグマや差別に立ち向かい、同性愛運動もこれに続いた。

 こうした動きの中で、保守的・穏健的な同性愛団体がラディカル化する契機が与えられることもあった。1955年に設立された最初のレズビアン団体である「ドーターズ・オブ・ビリティス(Daughters of Bilitis, DOB)」は、当初は主流社会への統合を目指す路線が明確であったが、この時期になるとラディカルな代表を選出し、抗議活動を積極的に行った。穏健化していたマタシン協会も、地域によってはラディカルな運動に接近することがあった。ほか、ゲイ・リベレーション・フロント(GLF)、ラディカル・レズビアンズ(Radicalesbians)なども含めて、当時の運動の動きと、他の社会運動(特に反ベトナム戦争)との関わりを中心に描写している。そしてその中で常に生じる、体制への同化の動きについても取り上げている。

結論

(再び、論文を翻訳して引用)

 この歴史の系譜から見れば、1990年代に現れたクィア運動の注目される闘争戦略と人を不安にさせるラディカルな立場は、多方面において、本稿で提示した左翼を立場とする初期の同性愛運動の中にその先駆を見い出すことができる。結局のところ、性的アイデンティティの闘争の台頭は、常に多くの社会的要因によって突き刺され、屈折させられてきた。そして、激化し震動する政治的雰囲気の中では、性的アイデンティティによって構築された「同質性」はすぐに深刻な試練にさらされ、性的アイデンティティの複雑なもつれもすぐに運動内部に様々な波紋を形成する。実際、性的アイデンティティに限らず、さまざまなアイデンティティ・ポリティクスの運動はかつて、あるいは今まさに、同様の試練に直面している。しかし、前述のように、このような一つの差異がどのような形で表現されるか、解消されるか、排除されるか、あるいは根本的に分裂するかは、その時々の社会政治的雰囲気や運動メンバーの互いの力の駆け引きによって決まる。米国同性愛運動のクィア化の過程における歴史の公案は、まさにわれわれがこの軸で思考するための可能な方向性を提示している。

 「アイデンティティ・ポリティクス」を研究する多くの人が、理論的な解説の中でクィアアイデンティティの抽象性・流動性を強調してきた。また、クィアアイデンティティは、揺れ動き、変化し、多重であるとしばしば描写される。したがって、一見すると、(クィアアイデンティティは、)自由自在で、活発に変化することの驚き、喜び、楽しさを帯びている。しかし、歴史の過程において同時に見られるのは、性的アイデンティティクィア化の過程が、実際には暴力的な抑圧への応答にしばしば付随していた―かつ必然的に直面した―ということである。そして深く考えさせられるのは、こうした暴力的な抑圧は、往々にして、同性愛運動が対抗しようとしてきた父権的異性愛制度からではなく、反対に、「同じ」性的アイデンティティを持つ兄弟姉妹から、性的アイデンティティの下に覆い隠された政治的アイデンティティ(階級、人種、文化など)の差異とそれに起因する抑圧から生じてきたということである。この観点から見れば、(左翼)クィアアイデンティティは、強い圧力の下で、かえってなお高らかに─主流で、敬意を払われ、歓迎され、羨望される方向ではなく─周縁的で、追放され、最も強烈に抑圧された、語ることすらできない方向に向かって、喜びをもって流動する。そして、機敏な策略によって、クィアが歴史の過程の中で発展させてきたさまざまな特質を、各種の社会文化領域へと浸透させていく。このような百折不撓の闘争と運動こそが、(左翼)クィア運動の最も貴重な伝承なのかもしれない。

(以上、引用終わり)

感想

 最初の翻訳の中の、マタシン協会の創始者の五人が「政治上でも性的アイデンティティ上でも「同志」であり」という一文には、以下のような注釈がつけられている。

本稿では、引用符をつけた「同志」の語は、左派のアイデンティティと同性愛のアイデンティティを個別の主体において合一している場合を指す。

 前回の記事で、「同志」という言葉のもつ含意を紹介したが、ここで明確に性的マイノリティとしての「同志」と左派的立場としての「同志」が(用語的にも)重ねられていることが分かる。

 最後の結論の一段は、(左翼)クィアアイデンティティを示す言葉として、非常に力強い。アイデンティティ・ポリティクスを突き破り、周縁的で、追放され、最も強烈に抑圧された、語ることすらできない方向に向かって、流動してゆくこと、それが(左翼)クィアである、というわけだ。ここでは、性的アイデンティティが同じでも、政治的なアイデンティティの差異によって、その中で抑圧が生じると指摘されているが、これは何春蕤自身が通ってきた道でもあるのだろう。

 本稿を通して読むと、政治的な動きや迫害といった社会的背景があるなかで、性的マイノリティ個人個人の判断がどのように現れてくるか、それが運動にどのような変動をもたらすか、といった歴史的経緯を丹念に追いながら、その中で現れる左翼的な資源の蓄積に着目する何春蕤の観点がよく読み取れる。

 なお、本稿で扱われるのは同性愛運動がほとんどで、トランスジェンダーを含めた他の性的マイノリティが取り上げられないのは、時代的制約があるとはいえ、物足りないところはある。

 

 次回は、三部作のうちの①「性革命:マルクス主義的観点から見た米国百年のセクシュアリティ史」を少し読んでみたい。

(棋客)

*1:米国同性愛運動の「クィア」化の方では、より音訳に近い「酷兒」を使い、「左翼からクィアへ」の方では、アイデンティティ・ポリティクスをの限界を超える意味で「異」の字を強調して「酷異」を使ったのか?と推測しているが、違うかもしれない。

*2:「性/別」という言葉は、二分法を乗り越えた「性別」内部の多元性・流動性の明示、性別(ジェンダー)と性(セクシュアリティ)の交差と集約が不可能なことの明示、また「性」に多元的な「別」(差異)があることの明示、また他の社会的差異の含意などを示している。何春蕤『「性/別」攪乱:台湾における性政治』(御茶の水書房、2013年)に詳しい。