達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

林秀一と毛沢東

 『林秀一博士存稿』(林秀一先生古稀記念出版会、一九七四)をパラパラと眺めていると、「中国哲学界の現状」「毛沢東主席会見記」という文章が載っていまいた。これらは、林秀一が訪中した時の記録を残したものです。

 林秀一は、中国古典の研究者で、『孝経述義』の復元研究がとくに有名です。以前、『孝経述義』のWikipediaを執筆したことがありますので、参考にしてください。

ja.wikipedia.org

chutetsu.hateblo.jp

 1956年、郭沫若の招待で、「岡山県訪中学術文化視察団」が中国を訪問しました。その団長が林秀一です。第一次五カ年計画が終わりに近づき、いわゆる「百花斉放百家争鳴運動」が行われていた頃です。視察団は一ヶ月以上滞在し、特に学問交流を進めるための足掛かりを作ろうと試みました。

 一つ目の文章の「中国哲学界の現状」は、実際に中国の学者と交流し、その現状を報告したものです。中国科学院を訪問した際には、金岳霖・馮友欄なども同席していたそうです。所長の長潘梓の説明をまとめたものを一部抜粋します。

 解放後七年間に、中国では学者の研究態度に大きな変化が起こった。現在もその変化の過程にある。例えば、過去には一人の学者がある問題について専門的に考えた。しかし、現在ではまずその目的を確かめるようになっている。いま、中国の政治は一つの方向―社会主義国家建設という―に向かって進んでいる。哲学者もまたその方向に進むことが必要であると考え、目下それを確かめつつある。そしてそれができてから分類研究に入ることになる。……さて中国の革命はマルクス主義によって成果を上げた。従って各問題を考えるにも、マルクス主義によって研究を進めていく考えを持っている。(p.103)

 こうした背景のもと、この頃には中国の歴史研究は唯物史観一色に染まっていました。

 次に収められているのが、「毛沢東主席会見記」です。視察団はもともと毛沢東と会う予定など全くなかったようですが、郭沫若の取りなしで急遽毛沢東との会見がセッティングされたそうです。

 十一月十七日に、中国科学院連絡局長王拓氏が私たちの宿舎の北京飯店に来訪せられ、「明日、あなたがたの団体に重大なことが起こるから、全員待機するように」と連絡があった。いよいよその日になると、「今夜八時から毛主席があなたがたの団体と会見するから準備されたい。夜、会見するのは失礼であるが、毛主席は昼に寝て、夜に仕事をする習慣になっているからあしからず」との重ねて連絡があった。

 ……しかし、私たちは会見といっても、せいぜい列立拝掲の短時間の会見に終わるのではないかと、想像していた。ところが、いよいよ宿舎を出発し、迎えの自動車四台に分乗して、紫禁城内の勤政殿に到着すると、すでに毛主席が待っておられ、団員各自に一々懇ろな握手をして下さった。

 その後、毛沢東は各団員に出身地とその場所の風土について質問した後、その団員のために一時間ほどの講演を行ったそうです。以下、その内容を少し抜粋します。

 たとえば、日中戦争については、このように言っています。

 先ほど林団長は長いこと多大のご迷惑をお掛けしたと恐縮されたが、それは恐縮に当たらぬことです。私たちの戦ったのは、日本の軍閥であり、官僚であって、皆さんたち人民は私たちの友だちなのです。(p.124)

 含蓄があるのは、以下の一段でしょうか。

 また、国家の建設には平和ということが何としても大切です。私たちの国がここまで建設の進んだのも、朝鮮戦争の後にいささかの平和が続いているからです。ところで、お国は平和を回復されたとはいうものの、国内には至るところにアメリカの軍事基地があり、たくさんの進駐軍がおります。本当の意味での平和というものではありません。私たちのイデオロギーをお国に輸出しようとは思っておりません。お国にはお国のやり方があります。だから、あなたがたは西方のことは何の心配もなく、一路東へ向かって進撃しなさい。そして真の平和、真の独立を一日も早く回復しなさい。

 また、あなたがたのような文化の進んだ国から、私たちの国へ来られたら、私たち人民がモッコで土を運んだり、手押車で煉瓦を運んでいたりするのを見て、恐らくトラック一台入れたらどうかという感慨を抱かれたでしょう。しかし、私は一国の主席として、トラック一台入れることによって、私の愛する人民が一千人失業することを、さらに恐れるのです。

 特に「トラック一台入れることによって、一千人失業する」という話には興味を惹かれました。というのも、以前、このブログで似たような話を紹介したことがあるからです。

 →溝口雄三『方法としての中国』の読書案内(2) - 達而録

 これは光緒の初め、つまり1880年ごろに、劉錫鴻という外交官がイギリスを訪問した話です。こちらには、こんな話が載っています。

 ロンドンタイムス社を訪ねて、日に二八万部が印刷機によって一〇人たらずで刷り上げられ、一日の売上高も洋銀四千三百余元にのぼると知ると、なぜ人力で一日一人一〇〇部ずつとして、二八〇〇人の印刷工を就労させ、彼らに均しく一元半余の日給にありつく機会を分かち与え、その扶養家族を平均八人として計二万二千余人の生活をここに託させてやらないのか、なぜわざわざ機器を用いてこの万余の口食を奪うのか、とおよそ経営者の考えも及ばぬ質問をする。(溝口雄三『方法としての中国』、1989、p.278-280)

 劉錫鴻と毛沢東、80年ほどの間隔がありながらも、全く同じようなことを言っているのは非常に面白いところです。

(棋客)