達而録

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池田秀三「馬融私論」―論文読書会vol.5

※論文読書会については「我々の活動について」を参照。

本論文はオンライン上で公開されています。

 

【論文タイトル】

池田秀三「馬融私論」(『東方學報』人文科学研究所、1980)

 

【要約】

 馬融と鄭玄が師弟の関係にあったことはよく知られているが、実際に鄭玄『周礼注』を見ると、馬融の説を引くところは一条もない。その理由としては、鄭玄が馬融の注釈の基本的態度そのもの、更には学問・人格自体に批判的であるということが考えられるが、それが如何なる事情に由来するのか客観的に論じるものはない。そこで、まず馬融の人格と学問を偏見なく描き、その一生と学問、鄭玄との関係を考察する。

 後世批判を浴びた馬融の言動は、身体を惜しんで節を曲げ権門に阿附したことと、奢侈に耽り放縦な生活をしたことである。当時の清流派の馬融に対する感情は、その学識には推服せざるを得ないが、その人格に対する不快の念は一層強いというものだった。しかし以上の記録を残したのは清流派に同情的な趙岐や范曄であり、馬融への悪意があることも否定できない。実際、高節の士の典型とも言うべき記録もあり、馬融の評価は簡単には定められないのである。

 前章で生じた問題点を解消するため、馬融の事績を年代順に追う。筆者は、第一期(鄧騭に召されるまで)、第二期(李固を誣告するまで)、第三期(それ以降)に分ける。第一期では高い教養を持ち、高節を志向するも挫折し出仕。第二期では校書郎に移り更に学識を蓄えるが、政治に興味を持ち、「廣成頌」などを上奏する。その内容は重農、隆礼、尊賢、安民、陰陽災異などありきたりだが、誠実な儒家官僚であった。しかし、第三期に入ると、梁冀に阿って李固を誣告し、更に「西第頌」を上奏するなど、状況は一変する。その後汚職に手を染め、尽くしてきた梁冀に処罰され、政治的には再起不能なほどの挫折を味わった。最後に馬融が拠り所としたのは学問で、自らを批判する清流派にあてつけるように、豪勢な生活を送りながら弟子に教育を施した。

 次に、その学問について考察する。特に馬融は文人として秀でており、技巧的な賦頌を多く残し後世の評価も高い。賦頌の制作意図は諷諌にあるが、賦頌が現実には実効性を持たない建前でしかないという批判も早くからあった。一方、鄭玄にとっては経学が学問の全てである。つまり鄭玄には賦頌などを作っている暇はなかった。この点において、馬融と鄭玄は大きく離れる。また、馬融の諸子学への理解については、劉向の影響が大きい。しかし、諸子それぞれの本質を掴んでいたとはいえ、高度な体系的思想に至っている訳ではない。老荘に対してだけは強い傾斜が見られるが、馬融注の老子淮南子は全く現存せず、不明なところが多い。いずれにせよ、馬融は多くの後漢知識人の例に漏れず、思想的人間ではなかったことは確かである。

 最後に、経書への馬融注の検討に入る。馬融より先人の注釈者としては、賈逵と鄭衆がいた。賈逵は、訓詁や人名地名の解釈が詳しく、辞書無しで経文を読めることを目的とするもの、鄭衆は他の経書を引きながら重点的、専門的に注を付けるものである。馬融はその兼取を目指したが、その実両者の本質的な差を見抜けておらず、結果としては賈逵注に似たものになっている。一方、鄭玄は両者の差異を認識しており、自らの注釈では賈逵・馬融注を捨て、鄭衆注を採用した。両者の差異は、経書に対する信仰心の有無、換言すれば、その人にとって経学が思想的営為であるかそれとも単なる教養か、ということにある。つまり、鄭玄にとって経学は一種の宗教であり、六藝全体が無謬で相互に矛盾のないものであることを証明しようとした。一方馬融にとっては、それは教養に過ぎなかった。しかし、馬融が家法を打破し客観的な事柄としての注を量的、質的に最高レベルのものを準備していたからこそ、鄭玄が思うままに主観的な注を書くことができたのである。

 

【議論】

・綿密な文献調査に根拠を置く論文。筆者が馬融の心中を推し量るところが多いにも拘わらず、全体として強い説得力を持つように感じられる。

・間嶋潤一『鄭玄と周礼』(明治書院、2011)では、『周禮』を中心に礼体系を想定した学者として、劉歆-杜子春-鄭衆-鄭玄という系統を指摘する。