達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

张升「陈名夏与龚鼎孳,阎尔梅’‘绝交’‘考」―論文読書会vol.6

※論文読書会については、「我々の活動について」を参照。

 

【論文タイトル】

张升「陈名夏与龚鼎孳,阎尔梅’‘绝交’‘考」(『顾诚先生纪年暨明清史研究文集』p157~167)

 

【要旨】


 陳名夏、江蘇溧陽人、清初の貳臣。龔鼎孳、安徽合肥人、清初の貳臣。閻爾梅、江蘇沛県人、清初の遺民。清以前、三人には交友関係があったが、清代に入ると交友関係は崩れてしまう。陳名夏と龔鼎孳・閻爾梅の絶交を分析する事を通じて、清代における南方貳臣と遺民の交流について認識を深めることができる。

 清以前、陳名夏と龔鼎孳の関係は深かった。しかし、清代に入ると、陳名夏は清に仕え、龔鼎孳は清に仕えないことを選んだ。陳名夏は北方人や満人、更には閹党とさえも良好な関係を築こうとした。陳名夏は崇禎十六年に仕官したため閹党と対立関係になかったが、龔鼎孳はそれ以前から官職にあったため、閹党を憎んでいた。二人はこの点で異なっていた。両者の対立が露わになるのは、龔鼎孳が復官しようとする際だった。陳名夏は龔鼎孳の復官に反対したため、龔鼎孳の復官は遅れることになる。そして、陳名夏が罷免された順治九年に、ようやく龔鼎孳は復官する。二人は、南方人の代表として、南方人の利益を守ろうとした点では同じだった。陳名夏の死後、龔鼎孳は陳名夏に同情し、官を辞した。以上の分析から、南人の貳臣に二つのあり方があることが分かる。陳名夏は北方人・満人と密接な関係を築くことで南方人の利益を守ろうとした。一方で、龔鼎孳は北方人を批判し自分を昇進させることで南方人の利益を守ろうとした。

 陳名夏と閻爾梅もまた清以前は、深い関係にあった。しかし、清代に入ると二人の関係は変化する。閻爾梅の詩文集の中では、陳名夏が閻爾梅に面会を求め、閻爾梅が断ったと書かれ、陳名夏の詩文集の中では、閻爾梅が陳名夏に面会を求め、陳名夏が断ったと書かれている。つまりお互いに相手が自分に面会を求め、自分が断ったとしている。
 陳名夏の文集『石雲居文集』巻十五「答聖秋」によれば、(1)陳名夏は明代からすでに閻爾梅と絶交しており、(2)順治三年に豊県を通過した際、閻爾梅は陳名夏に面会を求めたが、これを拒否した。(3)また、その後、閻爾梅が京師に来た際にも、面会を要求してきたが拒否したとしている。しかしながら、陳名夏と閻爾梅の文集を確認すると、(1)明代には、二人は詩のやりとりがあり、絶交関係にあったとは考えられない。(2)また、順治三年の豊県での拒絶の後、閻爾梅年譜と閻爾梅の詩文集によれば、順治四年と五年には陳名夏が閻爾梅を招待して面会を求め、閻爾梅が断ったと記されている。陳名夏が友人であり遺民でもある閻爾梅に面会を求めたというのが実態ではないだろうか。(3)京師での拒絶についても、同じく陳名夏の記述は誤りであると推測される。
 では、なぜ「答聖秋」には自分が閻爾梅を拒絶したと書いたのか。恐らく「答聖秋」が書かれたちょうどその時、順治九年の山東省での反清蜂起があり、閻爾梅が済南で獄に繋がれたからだ。つまり、貳臣である陳名夏は、遺民が自分を理解し許してくれることを求めながらも、遺民との交流が自身の将来に悪影響を及ぼすことを心配していた。ここから、貳臣の遺民に対する矛盾した態度が窺える。
 龔鼎孳と同じように、閻爾梅も清朝には否定的であったが、陳名夏の最期には哀れみの言葉を遺している。順治十一年、南党案によって陳名夏が論死する。済南の獄中にいた閻爾梅は陳名夏を悼む詩を作っている。貳臣にとって、死こそが最後に許しと解放を得る一番の方法だったのかもしれない。陳名夏は貳臣としてあらゆる立場の人物と良好な関係を築こうとし、結局は誰からも助けを得られなかった。彼は党争の犠牲者であると言える。

 

【解説】


貳臣・・・明と清の両方に仕えた者
遺民・・・清への仕官を拒否した者
閹党・・・宦官
・陳名夏と龔鼎孳の立場の違い→萬暦・天啓年間には、官僚と宦官の激しい党争があった。陳名夏が仕官した崇禎十六年は、明が滅ぶ直前であり(崇禎十七年と順治元年は重なっている)、宦官と官僚の党争はなくなっていた、と考えられる。
・南党案→清初の漢人官僚に対する弾圧事件の一つ。陳名夏は、清朝内部に自身に親しい人物(復社同人が多かった)を送り込もうと積極的な推薦を行った、これが私党の結成と見なされ、粛正された。井上進「樸學の背景」(『東方學報』64、p284~285)参照

 

【議論】


・「体谅」→許し
・「解脱」→日本語では、仏教的意味合いが強い。中国語では、広く使われる後で、苦痛に対応する。
・「解放」→中国語では、束縛に対応する語。
・「(陈名夏)渇望遗民的理解和体谅」(p165)→陳名夏は、遺民が自分を理解し許してくれることを望んだ。陳名夏が遺民をどう思っていたのかについては、この論文では言及されていない。