「山の学校」の漢文を読む授業から、今回は『世説新語』雅量篇の逸話を取り上げます。
劉慶孫在太傅府,于時人士,多為所構。唯庾子嵩縱心事外,無跡可閒。後以其性儉家富,說太傅令換千萬,冀其有吝,於此可乘。太傅於眾坐中問庾,庾時頹然已醉,幘墜几上,以頭就穿取,徐答云:「下官家故可有兩娑千萬,隨公所取。」於是乃服。後有人向庾道此,庾曰:「可謂以小人之慮,度君子之心。」
言葉を補いながら意訳すると、以下のような感じ。
劉慶孫(劉輿)は、司馬越(太傅)の臣下にいた時、よく人を騙して罠にはめていました。しかし庾子嵩(庾敳)だけは、俗事に興味がなく、付け入る隙がありません。劉慶孫は、庾子嵩が倹約家で家に大金があるのを聞いて、司馬越を経由してお金の借り入れを頼み、惜しむようならそこに付け入ろうと考えます。
司馬越が尋ねに行くと、庾子嵩はすっかり酔っぱらって、机に顔を突っ伏し、帽子は外れて机の上に落ちているありさま。話しかけると、頭を帽子に突っ込み、おもむろに顔を上げて、こう答えます。
「うちには二三千万はあるから、好きなだけ持っていきな。」
劉慶孫は、これでさすがに「まいりました」となった。
後になって、この経緯を庾子嵩に伝えた人がいた。すると庾子嵩は「小人の慮によって君子の心を度(はか)る、というべきだな」と言った。
だいたい話の流れはこんなところですが、最後の「可謂以小人之慮、度君子之心」のところが、どういう意味で、何を指しているのかが分かりにくいです。
この言葉は、直訳すれば、「小人(とるに足らない人)の思慮によって、君子(立派な人)の心を推測する」となります。
私は、「小人」=「劉慶孫」、「君子」=「庾子嵩」と考えて、劉慶孫のしょうもない策謀で、君子の心を計ろうとしたな、と言いたいのかと思いました。ただ、この解釈だと庾子嵩が自分で自分のことを「君子」と言っているということになるのが、ちょっとどうかな、というところ。
受講生の方は、「以小人之慮、度君子之心」を、「見当違いの邪推をする」の慣用句として、庾子嵩が「そんなのは邪推だよ」と質問者に返した、と解釈されました。確かに、質問者が経緯を説明したということは、「これこれこういう経緯があったのですが、よく罠にはまりませんでしたね」みたいなことを言ったのでしょうから、これに対して、庾子嵩が「いやいや、酔ってただけだから、邪推だよそれは」みたいな煙に巻いた返事をした、というのは考えられるところです。
どちらが正しいか決めるのは難しいですが、後者の受講生の読みはシチュエーションをよくとらえていて、なかなか面白いですね。
ちなみに、同じ逸話を載せる『晋書』庾敳伝を見ると、こうなっています。
敳有重名,為搢紳所推,而聚斂積實,談者譏之。都官從事溫嶠奏之,敳更器嶠,目嶠森森如千丈松,雖礧砢多節,施之大廈,有棟梁之用。時劉輿見任於越,人士多為所構,惟敳縱心事外,無迹可間。後以其性儉家富,說越令就換錢千萬,冀其有吝,因此可乘。越於眾坐中問於敳,而敳乃穨然已醉,幘墮机上,以頭就穿取,徐答云:「下官家有二千萬,隨公所取矣。」輿於是乃服。越甚悅,因曰:「不可以小人之慮度君子之心。」
最後、この台詞を言った人が司馬越になっていて、否定の「不」の字が追加されています。この場合だと、「小人」=「劉慶孫」、「君子」=「庾子嵩」で、「劉慶孫のしょうもない策謀では、庾子嵩の心を推測することはできない」という意味で読むのが自然になりそうです。
『晋書』は唐代に作られていて、『世説新語』よりはだいぶ後に成立したものです。想像をたくましくすれば、後から『晋書』が作られるときに、話を理解しやすいように、発話者を司馬越に変えて、「不」の一字を足したのかもしれないですね。(ただ、それが本来の意味なのかは別問題ですが。)
さて、『世説箋本』の頭注には、この言葉が『左伝』昭公二十八年に出典があることを指摘しています。
『左伝』昭公二十八年「及饋之畢、願以小人之腹、君子之心、屬厭而已。」
〔杜注〕屬、足也。言小人之腹飽、猶知厭足、君子之心亦宜然。
これは宴会の場で、家臣たちが、「お腹いっぱいになった小人(=私たち家臣)のように、君子(=君主)の心も満ち足りることをお祈りしております」と言ったものです。
こちらの場合、文脈はまた少し違っていて、賄賂を受け取ろうとする君主を、家臣が諫めた話になっています。つまり、主君さまはもう十分に財があるのだから、もう満たされても良いのではないですか(=賄賂を受け取らないでください)、と提案しているわけです。
ちなみに、「以小人之慮、度君子之心」「以小人之腹、度君子之心」「以小人之心、度君子之腹」といった言葉は、「下種の勘繰り」「邪推」といった慣用句として、現代語の中国語辞典にも載っているようです。
(棋客)